第8話 腎機能の攻防

胸部大動脈瘤手術から四十八時間。透花大学医学部付属大学病院の集中治療室(ICU)は、九条 慧(くじょう けい)の、そして事務局長 黒川 雅の静かな戦場となっていた。


患者、志摩 昭夫(しま あきお)教授の術後容態は安定していたが、焦点は一つ、腎機能だ。

大動脈の遮断時間を極限まで短縮した九条の手術は、志摩教授の重度の腎不全をさらに悪化させ、透析導入へと追い込む可能性を孕んでいた。


九条はICUのモニター室で、血清クレアチニン値と尿量の推移を注視していた。これが九条の契約解除のトリガーとなる。

透析導入は、九条の「QOL回復が絶望的な症例」への執刀と見なされ、黒川が九条を合法的に排除する武器となるからだ。


「尿量は、術後一日目から増加傾向にあります。クレアチニン値も、術前の水準を維持しています」

ベテラン看護師の小野 陽子(おの ようこ)が報告する。


「維持しているのではない、小野さん」

九条は冷たく訂正する。

「術前よりも改善させなければ意味がない。志摩教授の人生は、透析導入を回避できるかどうかにかかっている」


九条が指示した術後管理は、一般的な心臓血管外科のプロトコルとは異なっていた。一ノ瀬 杏(いちのせ あん)が麻酔医として緻密に血圧と薬液を調整し、九条は利尿剤と腎血流改善薬の投与を、腎機能の数値のわずかな変動に合わせてミリグラム単位で変更し続けた。それは、まるで生きた腎臓を体外で調整しているかのようだった。


そこに、黒川 雅が監査役の医師を伴って現れた。


「九条先生。志摩教授のデータはすべて記録しています。特に、過剰な利尿剤投与、プロスタグランジンE1の持続投与は、腎機能をかえって疲弊させるリスクがあります」


黒川は、監査役の医師に視線を送り、九条のプロトコルが標準から逸脱していることを強調させた。


「腎機能が低下した場合、この過剰な処方が原因であると立証されます。そして、透析導入となれば、あなたの契約違反が確定する」

黒川は勝利を確信しているようだった。


九条は振り返り、黒川を正面から見据えた。

「腎不全の患者に標準を適用するのは、諦めです。透花大学病院の外科医が切除技術を誇るなら、術後管理も最高峰でなければならない」


彼は、黒川の派遣した監査役の医師に、志摩教授の腎臓が持つ潜在的な回復力と、九条の処方によって開かれた尿細管のメカニズムを、専門用語を駆使して説明し始めた。論理的かつ圧倒的な知識の前に、監査役の医師は反論の言葉を失う。


七十二時間後。宮本節子の治療で九条を助けたリハビリテーション科医の立花 健(たちばな けん)がICUに現れた。


「九条先生。腎機能のデータを見ました。驚異的です。クレアチニン値が術前よりも改善している。このままいけば、透析回避は確実です」


九条は、初めて安堵のような表情を見せた。それは、手術の成功ではなく、QOLの破綻を防いだことによる安堵だった。


黒川は、モニターに表示された腎機能の劇的な改善を示す数値を、憎々しげに見つめていた。彼の仕掛けた罠は、九条の「切って終わりではない」という信念、そして術後管理の徹底によって打ち破られた。


「くそ...」

黒川は舌打ちし、九条の前に現れた。

「今回はあなたの勝ちです。しかし、九条先生、あなたを排除する理由は、技術の失敗だけではありません。組織の無秩序こそが、私の追及する対象です」


黒川の言葉は、九条が体制の中で孤立し続ける、次の戦いを予告していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2025年12月19日 00:00
2025年12月20日 00:00
2025年12月21日 00:00

九条 慧の診療録 SAKURA @sakura3350

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画