第6話 術式の絶対零度
胸部大動脈瘤の切除と置換手術は、九条 慧の生涯を賭けた賭けとなった。ガラス越しには、黒川 雅の派遣した事務員と、外科教授の神宮寺 徹(じんぐうじ とおる)が監視している。
彼らの視線は、九条が「QOL回復が絶望的」という契約違反を犯す瞬間を待っていた。
九条の目的は、単に動脈瘤を切除することではない。重度の腎不全を併発する患者、志摩 昭夫の腎血流を極限まで保護し、術後透析導入という QOL の破綻を回避することだ。
「大動脈クランプ開始。目標として全身の脳分離循環停止時間は六分以内とする」
九条の指示に、麻酔科医の一ノ瀬 杏(いちのせ あん)が応答する。
「体温降下、目標摂氏20度到達。BC(ブラッド・カーディオプレジア)注入完了。心停止を確認」
「ピーーーーーーー」
心電図のアラームが心停止を知らせる。
九条は、低体温循環停止を用いたデブベーキー式の修正術式を採用していた。しかし、通常のデブベーキー法よりも腎保護に特化するため、全身の血流停止時間を大幅に短縮する必要があった。
九条は鋭く声を上げる。
「フェネストレーション。メス、ラウンドノーズ」
膨張した動脈瘤を縦に切開し、瘤壁を露出させる。九条の瞳は、剥離された血管組織に潜む、重要な分枝血管を見逃さない。特に、腎臓へ繋がる腎動脈、そして脊髄への血流を維持する肋間動脈の位置を、一瞬にして把握した。
「吸引、フレクシブル」
「吻合開始。ダクロン製人工血管、サイズ30ミリ」
「プロリン5-0縫合糸。」
九条は、人工血管(グラフト)を大動脈の残存部に縫い付け始める。その手つきは、速さ、精度、そして力加減の全てが完璧だった。彼は、心臓血管外科で一般的に使われるプロリン縫合糸 4-0ではなく、5-0という極細の糸を用い、血管の組織を最小限しか傷つけないオーバーアンドオーバーの連続縫合で、血管の接合部(吻合部)を形成していく。
「吻合完了。リークなし」
九条が確認する。
この一連の吻合にかかった時間は、わずか四分。神宮寺教授が自身の最速記録と比べるまでもなく、規格外の速さだった。
「再灌流開始。脳灌流ルート確保。腎臓への血流、直ちに回復」
九条は、腎臓の再灌流障害を防ぐため、血流再開の瞬間と速度まで緻密にコントロールした。一ノ瀬杏は、九条の要求に合わせて薬液と血圧を調整する。それは、外科医と麻酔科医による二重奏(デュエット)だった。
手術は成功裏に終了した。腫瘍は完全に除去され、人工血管も定位置に固定された。しかし、九条の戦いは、ここからが本番だった。
神宮寺はガラス越しに黒川にささやいた。
「術式自体は成功だ。だが、腎機能は必ず低下する。術後透析となれば、九条の契約違反は成立する」
九条は、手術台を降りる間際、術野から目を離さず、一ノ瀬に指示した。
「杏先生。プロスタグランジンE1の持続投与を。腎保護と、術後の体液バランスの維持が、腎機能維持の鍵だ。私の術後QOLプログラムは、今、この瞬間から始まる」
九条 慧の信念は、メスを置いた後も、外科医の知識と責任として、途切れることなく続いていた。
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