第5話 切開の賭け

第四話での九条 慧の無許可介入により、事務局長黒川 雅(くろかわ みやび)による九条への排除計画は、最終段階に入っていた。黒川は、九条の契約内容に存在する「QOL回復が絶望的な患者の手術は、契約違反と見なす可能性がある」

という項目を武器にしようとしていた。


その矢先、透花大学病院に、九条の排除に利用できる、完璧な症例が運び込まれた。


患者は、志摩 昭夫(しまあきお)という名の、六十代の元大学教授。


病状は、。通常の手術ではリスクが高すぎ、内科的なステントグラフト治療も限界だった。しかし、彼の病状をさらに絶望的にしていたのは、重度の腎不全を併発していることだった。


神宮寺教授はカンファレンスで、九条に冷たく告げた。


「志摩教授の手術は、外科的に成功しても、術後必ず透析導入となる。QOLは著しく低下し、長く生きることは難しい。九条、君のポリシーに従うなら、これは『QOL回復が絶望的な症例』だ」


黒川は九条を会議室に呼び出した。

「九条先生。この手術を執刀すれば、あなたは自身の契約条件に違反します。契約解除の正当な理由を提供することになる。私は、外科医としてのあなたの良心と、あなたの契約のどちらが重いか、試しているのですよ」


九条の冷徹な表情に、一瞬、迷いがよぎった。彼は、手術を断れば契約は守られるが、志摩教授の命は見捨てることになる。


九条は、彼の過去の過ちを思い出す。患者を「切って終わり」にすることの罪深さ。


彼は黒川に対し、静かに言い放った。

「志摩教授のQOLは、切る前から絶望的だ。だが、私の手技で、その絶望の度合いを変えることができる」


九条が導き出した答えは、通常の外科医なら避ける、腎機能を維持したまま大動脈瘤を切除するという、極限の難易度を持つ手術だった。


「杏先生、立花先生、私に付き合ってもらう」

九条は、麻酔科医の一ノ瀬 杏、リハビリテーション科医の立花 健にだけ、極秘の治療計画を伝えた。


第1手術室。照明が九条の顔を鋭く照らす。


神宮寺教授と、九条の失敗を記録しようとする黒川の部下が、ガラス越しに九条の一挙手一投足を監視していた。


「これより、志摩 昭夫さんの胸部大動脈瘤、人工血管置換術による開胸手術を行います。」


九条はまず、患者の胸部に垂直にメスを入れる。


「メス、サージカルスチールの番号10。」

「モノポーラ。」


鋭利な刃が正確に皮膚を切開し、九条はモノポーラを用いて、胸骨を覆う筋肉を最小限の損傷で剥離していく。


胸骨が鋸で切断され、開胸器がセットされ、心臓と大動脈が露わになる。巨大な動脈瘤は、まるで爆弾のように膨らんでいた。


「バイパス準備。腎臓への血流を確保する低体温循環停止は、極限まで短縮する」

九条は一ノ瀬に指示を出す。


通常、大動脈手術では臓器保護のため、低体温で一時的に全身の血流を止めるが、九条は腎機能の維持というQOL回復の鍵を守るため、その時間を数分の世界に押し込めようとしていた。


「プロリン 6-0 縫合糸。」


九条は極細の縫合糸(プロリン 6-0)を手に取った。彼の集中力は、メスを置いた過去の失敗への贖罪と、目の前の命を救う使命が一体となっていた。


大動脈をクランプし、動脈瘤を切開する。その切開線がわずかでもずれたり、クランプ時間が規定を超えたりすれば、腎不全の進行は避けられない。


九条のメスさばきは、迷いがない。彼は、血管の壁を再建するための人工血管を、信じられないほどのスピードと精度で、残された大動脈に吻合していく。


「吻合完了。クランプ解除、血流再開」


神宮寺教授は、ガラス越しに信じられないものを見た。九条の技術は、彼が想定していた天才のレベルを遥かに超えていた。


しかし、九条の真の戦いは、ここから始まると、彼は知っていた。「切って終わり」ではない。腎機能を守り抜き、青柳教授のQOLを回復させられるか。それは、手術室の外にある、黒川の仕掛けた罠を打ち破るための、九条 慧の生涯を賭けた賭けだった。

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