第3話 予算を越える贖罪

九条 慧が脊椎損傷患者、青柳 悟の治療に持ち込んだのは、従来の医療では考えられない発想だった。絶望的な機能回復を追うのではなく、機能しない身体のための新たな「」を外科医の視点から築くという戦略。


これは、全身のバランスを再構築する緻密な投薬と、一ノ瀬 杏、立花 健との三者連携を必要とし、当然ながら、透花大学病院の経営システムにとって極めて異質なものとなった。


その異常なコストは、すぐに事務局長黒川 雅(くろかわ みやび)の目に留まった。


「九条先生。この患者、青柳 悟氏の月間治療費、特に投薬とリハビリテーションにかかる人件費が、通常の脊椎損傷患者の三倍に達しています」


黒川は九条を事務局の奥にある部屋に呼び出し、冷徹な口調で言った。彼の前には、九条の全ての治療オーダーが記録された分厚いファイルが開かれている。


「脊椎損傷後の交感神経系の疼痛に特化した投薬。そして、上体筋力の再構築を目的とする、リハビリテーション科医と麻酔科医が付きっきりとなるセッション。これは保険外の過剰治療です」


九条は壁に寄りかかったまま、黒川の言葉を遮った。


「彼は脊椎損傷で終わるのではない。適切なケアがなければ、重度の慢性疼痛と二次的な機能不全に陥り、再入院を繰り返すことになる。その方が、病院にとって遥かにコスト増です」


「未来の可能性を根拠に、現在の予算を破壊するのは経営ではない、九条先生。青柳氏に機能回復の可能性はゼロ。貴方の『QOL回復』という美名のもとで、病院のリソースを無駄遣いすることは許されない」


黒川は、九条の過去の失敗を知っていた。そして、九条がこの治療に注ぐ情熱が、贖罪という個人的な動機から来ていることを見抜いていた。


「あなたが過去に満足な術後ケアができず、患者を失ったという噂は、私も聞いていますよ」

黒川は口の端を上げた。

「その個人的な負債を、この病院の予算で清算しようとしているのではありませんか」


九条の感情が、初めて表面にわずかに現れた。瞳の奥に、過去の痛みがよぎる。


「過去は、現在の治療に、関係ありません」

九条の声は低く、そして鋭かった。


「関係ある。我々はビジネスとして医療を提供している。個人的な贖罪は、あなたのポケットマネーで賄ってください」


そのやり取りの最中、九条の携帯電話に、リハビリテーション科の立花 健(たちばな けん)から緊急のメッセージが入った。


「九条先生、患者が動けない。投薬の効果が落ちている。佐倉医師が、独断で投薬プロトコルを変更しました」


佐倉医師——神宮寺教授の派閥に属する内科医——は、九条の介入を「専門領域の侵犯」と見なしていた。九条の高度な投薬プロトコルを、独断でマニュアル通りの標準量に引き下げたのだ。


「予算の削減、秩序の回復。彼のやっていることは、我々の意図と一致します」黒川は満足げに言った。


九条は電話をポケットに戻すと、黒川を無視して立ち去った。


「その『秩序』と『予算』が、患者の身体を破壊した」


青柳の病室に戻った九条を待っていたのは、激しい痛みに顔を歪ませる青柳と、混乱する立花、そして苛立つ佐倉医師だった。


「私の指示に従っただけだ! 貴方のプロトコルは過剰だ、九条!」佐倉が怒鳴る。


九条は青柳の脈と瞳を診ると、一ノ瀬 杏(いちのせ あん)に指示を出す。


「杏先生。予備の麻酔薬を」


「九条先生、まさか、手術台へ?」一ノ瀬は驚愕した。


九条は首を横に振る。

「メスは使わない。だが、身体の設計図の破壊は、緊急的な修復を必要とする。佐倉医師が破壊した神経系のバランスを、外科医が持つ最高の知識で、再起動させる」


それは、高度な局所麻酔と神経刺激を組み合わせた、外科医の知識と技術の全てを要する『手技』だった。


黒川の圧力と佐倉医師の反撃の中、九条 慧はメスを持たない外科医として、再び病院の秩序と予算に挑むことになった。

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