第2話 外科医が見送る機能

宮本 節子の術後管理を巡る騒動から三日後、透花大学医学部付属大学病院のに、一つの新たな挑戦状が運び込まれた。


患者は三十代の若手建築家、青柳 あおやなぎ さとる

重度の脊椎損傷を負っており、一命は取り留めたものの、下肢の感覚は完全に失われていた。


「救命措置は完了した。外科教授である私が、これ以上の治療は不要と判断する」


神宮寺教授は、脊椎外科の専門医とカンファレンスを開いた後、九条を前に言い放った。損傷部位が複雑すぎて再建は不可能であり、手術は機能回復を目的とするのではなく、損傷の拡大を防ぐことが主目的だった。


九条はカルテを静かに閉じた。


「脊髄の損傷は最小限に抑えられましたが、機能回復は絶望的です。この後、彼は車椅子生活となる。外科医の仕事は終わった」

と、神宮寺は結論づける。病院の権威を示す救命という目的は達成されたのだ。


「終わっていません、教授」

九条の声が響く。


「機能回復が絶望的でも、外科医の責任は終わらない。身体の一部を失った人間の人生を、どうやって再構築させるか。それが私の『後半の仕事』です」


神宮寺は苛立ちを隠さなかった。

「君の言う『後半の仕事』は、リハビリテーション科と精神科が担うものだ。君の仕事はメスだ。この病院の秩序を守れ」


九条は、患者の青柳悟が収容された病室を訪れた。青柳は、建築家として自らの身体能力に絶対的な自信を持っていた男だった。


「先生、私の足は、いつになったらまた地面を踏めますか?」

青柳は、虚ろな目をしたまま九条に尋ねた。


「残念ながら、感覚の回復は極めて困難です」

九条は曖昧な言葉を使わず、冷徹な事実を告げた。


青柳は静かに笑った。それは絶望の色だった。

「地面を踏めないなら、私に何が残る? 建築家として、自分の身体で現場を歩けないなら意味がない。私には、リハビリなど不要です」


青柳は、機能回復の見込みがないという外科医の判断を、自分の人生の終わりと結びつけていた。リハビリテーション科の立花 健が懸命に説得を試みるが、患者は心を閉ざし、食事すら拒否し始めた。


「九条先生。彼の身体を治すのは外科の仕事だった。彼の心と機能回復は、私たちの仕事だ。しかし、彼が生きることを拒否している」

立花は九条に助けを求めた。


九条は夜間の病室で、青柳の身体を詳細に診察した。彼は脊髄の損傷部位ではなく、損傷部位より下の神経ネットワーク、そして骨格と筋肉に注目した。



……「ガチャン・・・」

「立花先生、彼のリハビリは間違っている」

九条は翌朝、リハビリカンファレンスに乱入した。


「青柳悟にとって、車椅子は絶望の象徴ではない。それは彼の建築を再び世界へ運ぶ、新たな『足場』だ。しかし、現在の彼の身体は、その足場を支えられない」


九条が指摘したのは、多くの外科医やリハビリ医が見落としていた事実だった。下肢の機能が失われたことで、上体の筋肉やバランスが急激に崩れ、近い将来、重度の側弯症や慢性的な肩関節の痛みを併発する危険性があるという。


「機能しない部分ばかりに注目し、機能すべき部分の設計図を無視している。このままでは、彼はリハビリどころか、車椅子に座ることすら苦痛になる」


九条は、彼の過去の過ち——「切った後の人生」を無視したこと——を繰り返させないため、立花と一ノ瀬 杏に指示した。


「杏先生、脊椎損傷後の交感神経系の痛みと機能障害に特化した、新たな投薬プロトコルを組め。立花先生、あなたは今日から、『車椅子建築家として必要な上体筋力と骨格の再構築』に特化した、外科医主導のオーダーメイドプログラムを実行する。私はその土台を作る」


九条は、外科医として、青柳の「身体の新しい設計図」を描き直すことを決意した。それは、もうメスでは解決できない、しかし、外科医の知識と責任でしかできない、新たな挑戦だった。

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