日曜日のパスタ

白月秋野

日曜日のパスタ

 いつからか緩やかな死を希求していた。

時間の進行という耐え難き死の粒子を吸い込んで吐き出した息が白んでいくさまをじっと眺めた。

今日の晩御飯はパスタだと決めた。

高原健介タカハラケンスケは両手に乗る文庫本の重みをしばらく確かめてから本を閉じ、出かける準備を始めた。

 冬の、窓を閉じただけで暖房はつけてない、澄んだ空気が鼻を通った。

待機状態だった意識が徐々に覚醒し、瞼を開けると半分引かれたカーテンの向こうから眩しい朝日が宙を舞う塵を照らした。

無意識のうちに枕元のスマホに手を伸ばして寝ていた間入ったメールを確認しようとした。

しかし表示されたのはいつ友だち追加したかも分からない居酒屋の広告だけだった。

「それもそうか」と思いながら、そのまま布団の中でしばらくスマホを弄った。

彼は今年で二十三歳で、独身。

それについ先月一年間同棲していた彼女と別れた。

 意味もなく開いたユーチューブのショートをめくる手を途端にやめた健介はおもむろに起き上がってトイレに向かった。

彼が住んでいるアパートは築年数こそ五十年を少し超えるものの一人で暮らすには広すぎるくらいの面積と、それにしたら安すぎる家賃で彼は彼女との同棲を解消した今もなおそこに住み続けている。

彼女が家を出ていった直後は彼ももっと家賃の安いところに引っ越そうかとも悩んだが、もう住み慣れた家を契約も終わってないのに違約金を払ってまでは出ていきくなかったし、そもそも浮いた金でこれと言ってやりたいこともなかったので、そのまま契約が終わる来年の春までは住むことにした。

 トイレを出た彼は六畳の居間を見回した。

同棲していたころと大して変わらないはずが今日に限って特に侘しげに映るのは今日が彼の誕生日だからだろうか。

冷えた床が足の裏を象った。

 部屋に戻って携帯を拾った健介はまた居間に出た。

台所の横にある冷蔵庫の前に屈んだ彼は中を覗き込んだ。

少しくたびれたレタスとまだマシなトマトがあったので、それらと一緒にチーズとマヨネーズも出した。

薄切りの食パンをフライペンで焼きながらトマトを刻んみ、レタスの変色した部分を千切って取り除いた。

パンが焼かれる香ばしい匂いが部屋を満たした。

 火を消してフライペンに乗ったままのパンにチーズとレタス、トマトを順に載せ、そのまま閉じて食べようかと一瞬迷ったが、結局棚の中からツナ缶を出した。

適当な皿にツナとマヨネーズを入れて混ぜ、その半分をトマトの上に載せてパンを閉じた。

冷蔵庫から缶ビールを出してプルタブを引くと白い泡が立ち上がった。

冷たいビールが喉を通って胃の中に収まると、じんわりとした温もりがゆっくりと広がった。

何気なく開いたスマホは11時13分を指していた。

今日が終わるまで後12時間と47分。

まだ今日という日は始まったばかりだった。

台所に立ったままトーストとツナマヨを食べ終えた健介はそのまま流し台で皿を洗った。

 手についた水をズボンに拭いた健介は電子ポットに水道水を溜めて湯を沸かした。

部屋から専用のカップを持ってきた彼は底に残った僅かな紅茶を一気に飲み下した。

彼は紅茶のカップは洗わなくていいと思っており、そのためカップの内側には焦げ茶色のわっかが幾重にも重なっていた。

それは「茶渋を育てる」という言葉を彼なりに都合よく解釈した結果だった。

ティーバックを入れたカップにお湯を注いで透明な白湯に広がる紅茶の染みを眺めた。

立ち上る湯気の中には完璧で、完全で、隙間なく一人だけの日曜日の予感が含まれていた。

こんな日にシラフでいるのは精神衛生上よくないと、ついさっきビールを飲んだばっかだったが、更に酔う必要を感じた健介は冷蔵庫の上に置かれたジェムソン・ブラックバレルに手を伸ばした。

コルク栓を抜いて溢れない程度に波々注いだらアルコールに紛れてバニラや樽の香りがした。

 出来上がったティーハイを部屋の中央にある足の短い円形テーブルに置いて、その横にある一人掛けのソファチェアに腰を下ろした。

床に落ちた毛布を膝にかけた彼はティーハイを一口飲んでテーブルに置かれた色褪せた文庫本を手に取った。

開いた本からは触り古された紙の匂いがした。

 健介はもっぱら七〇年代を背景にした小説に傾倒した読書家であり、しかもそういった本を買うときは必ず大学近くの古本屋で買うという、これもまた奇妙な習性の持ち主だった。

彼が生まれたのは二〇〇〇年代も大分板についきた年で、物心つくころにはもはや二〇〇〇年代ですらなかった。

だから健介にとって七〇年代はディズニーランドよりやや現実味を帯びた幻の世界に過ぎないはずだったが、それでも彼が初めて『ノルウェイの森』を読んだ時はなんともいえない郷愁に胸を打たれた。

「こここそが私の本来の居場所だ」という届きもしない夢想を抱きながら彼は中高時代を過ごし、大学生になった。

入学当初は美容院に行って、ネットで服を買い、バンド部に所属したりと孤独ながらもその底部では常にピーチ・ボイズやビートルズが奏でる旋律が響く生活を試みたが、結局今やミセスやラッドの時代だった。

勝手な妄想に勝手に失望した彼はネットに居場所を求めたが、それもうまくはいかなかった。

そもそものコミュニケーション能力が低い彼が大学で受けた傷を背負い参戦したマッチングアプリでの戦果は悲惨そのものだった。

他人の孤独は理解しようとはしないくせに自分の孤独だけはいっちょ前に着飾って「私はここにいるのになんで分かってくれないの」と叫ぶ青年の咆哮を真剣に聞く人は誰もいなかった。

それでも健介が生きてこられたのは皮肉にも“こんな時代”だからだった。

彼は大学合格を期にそれまで貯めていた金の九割を株に回し、見事なまでの収益を上げた。

デイトレードを基盤としたハイリスクな投資を繰り返しながらも着実に稼ぎ続けた彼は二年生になる春には実質的な経済的独立を果たし、のびのびと一人暮らしを始められた。

そして夜中にコンビニに出かけることにも、週末、惰眠を謳歌してとるデリバリーにも飽き、自分がそれまでに望んでいた漂白された都会民の孤独に緩やかに絞め殺され、左腕から滴る血の量が増す日々の中、一宮理恵いちみやりえと出会った。

彼女と知り合ったのは一年を満たないマチアプ生活の中で彼が選んだ一番中間的なアプリだった。

 数あるアプリで何百回にも及ぶ自己紹介と初デートまでのやり取りを繰り返す中、それぞれのアプリに生息する女の子たちの特性を分析した彼は最終的に明らかに業者やサクラが多いものや、年齢層の合わない婚活アプリを除いて結果的にそのアプリに落ち着いていた。

重なる失敗に心を削られながら学んだ綺麗な仮面の被り方を持って相手に接し、テクニカルに会話する方法を身につけた彼はもはや誰にも届きやしな咆哮を放つ獣ではなくなっていたが、その代わりに誰も彼に触れることもない虚しい人間もどきになっていた。

だから実際会うまでの彼女のことはあまり覚えておらず、強いて感想をいうなら真面目そうな女、というくらいのごく一般的で薄いものでしかなかった。

 彼女と初めて直接会ったのは十一月の頭で秋から冬に向けて急激に寒くなる季節だった。

年末に向けて一気に加速する時期でもあって、お互い忙しい中、運よく見つけた二人とも何も予定が入ってない土曜日だった。

健介は墨色のニットにカジュアルな黒いスラックスを履き、パンツと同じ色のロングコート羽織って、これじゃ寒いのではと思い藍色のマフラーを巻いて恵比寿に出かけた。

駅前集合で、予定より二十分先について喫煙所でタバコを吸いながらお互いどんな服を着ているのかを教えあった。

彼女は黒の丈の長いフレンチコートにフリルの付いたスカート、それに青いニットを着て、エナメルバックを持っているといった。

もうすでに着いたのを知って急いで灰皿に吸い殻を入れて喫煙所を出ようとしたら、同じくスマホから視線を上げて出ていこうとする女性と目があった。

健介には少し濃いめに見えなくのない化粧、しかし、それを抜きにしても整った顔立ちに一瞬目を奪われたが、次の瞬間には目を剥がそうとした。

しかし横目に映った彼女の服装は、黒いコートに、青いニットで、肘にはチャーミングなエナメルバックがかかっていた。

彼女の方も相手が健介であることに気づいて微かに瞳孔が拡張した。

黙って見つめ合ったのは十秒足らずで、先に健介の方から話しかけた。

「リエさん、ですよね?」

彼女の方もそれを聞いて眉を少しあげ、口元に笑みを浮かべた。

「はい、一宮理恵です。ケンスケくん、だよね?」

「はい、そうです。こんな偶然もあるんですね」

健介も理恵もお互い相手が喫煙者なのは事前に知っていたけど、まさかこんな風に約束当日、喫煙所で出くわすとは予想だにしていなかった。

六時前の喫煙所は混んでいて、位置的に出口に近かった理恵が先を歩き、その後ろを健介が追う形で半透明のパネルで仕切られた喫煙所をでながら健介は直感的になんともいえない疲労を覚えた。

写真でみたより数段は整った顔立ちと、アイコスをカバンに仕舞うだけの簡単な仕草からも滲み出る“高級感”に、今のアプリに落ち着く前に出会った女性たちを思い出したからだった。

そのアプリを使用していた全ての女性、と主語を大きくする気はなかったにせよ、健介が実際にあった数人は、確かに彼からしてみれば手に余るような“高級品”ー育ちの良さと秀麗な美貌、そしてそれに見合うだけのプライドを持つ人たちーだった。

 喫煙所を出た二人は改めて目を合わせて挨拶を交わした。

「高原健介です。本日はよろしくお願いします」

「一宮理恵です。よろしくお願いします」

丁寧に両手を揃えて会釈を返す彼女の耳についた真珠のアイリングが街灯の光を反射してオレンジ色に染まった。

二人は肩を並べて駅の裏側に回り、なだらかな坂を登った。

店は一般住宅と商業ビルが混在する一角にある、健介が前にも何回かきた海鮮メインの小洒落た居酒屋だった。

予約時間まで二十分はあったけど、無事中に通され、壁にコートをかけて席に腰を下ろした。

席まで案内してくれた店員が水とおしぼりを渡しながら注文方法を教えてくれて、互いの携帯でQRを読み取ってメニューを選んだ。

 注文したビールとハイボールがそれぞれ健介と理恵の前に置かれて、ぎこちない乾杯を交わした。

冷たいビールを一気に飲み下した健介は深く息を吐き出した。

それを片目にハイボールを一口飲んだ理恵が先に話し始めた。

「健介くんって確かまだ大学生よね。さっきはびっくりしちゃったよ。ラインで話すときもそうだったけど、本当に大学生っていう感じじゃなかったからさ」

「それって老けてるってことですか?繊細な男心が傷つきますよー」

大げさに肩をすくめてみせる健介に理恵は「そういうところだよ。大学生にみえないっていうのは」と返した。

「そうですかね。でもそういう理恵さんも二十六には見えませんよ。勿論もっと若くみえるっていう意味で」

「ふううん、じゃあ、何歳にみえるわけ?」

「んー。それこそ大学生くらいですよ。サークルの頼もしい四女っていう感じですかね」

「あ、先のやつ訂正。やっぱ健介くんってまだ若い!」

「なんでですか?」

「サークルの四女って、そんな微妙な例えはダメだよ。それに女に頼もしいは褒め言葉じゃないから。ま、私は嬉しいけどね」

「なるほど。これは失礼しました」

健介は運ばれてきた生牡蠣に刺し身の盛り合わせ、タコワサと明太子パスタをテーブルの中央において取り皿を理恵に差し出しながら彼女が見た目通りの“高級品”じゃなかったことに秘かに安堵した。

毒にも薬にもならない上辺だけの心地良いやり取りをしながら酒を飲んで、つまみに箸を伸ばした。

お互いほどよく酔って、頬が火照り始めた時点で適当に切り上げて店を後にした。

冷たい夜風が頬を撫で狭い路地を通り過ぎた。

「やっぱこの季節は冷えるね」

理恵の言葉に自然と繋いでいた手を解いて首に巻かれたマフラーを彼女に巻き直した。

「ありがとう。健介くんはこの後どうする?」

彼は少し考える振りをして答えた。

「まだ飲みたいですけど、理恵さんは?」

「いいわよ。どっか知ってる店あるでしょう?」

「あるっちゃあります。私はもうお腹いっぱいなんでお酒メインがいいんですけどどうします?」

「私もー。じゃあそういうことだから案内して。それにいい加減さん付けと敬語はよしなさい」

「分かった。じゃあ理恵も名前で呼んで」

「はーい。健介」

そんな風にホテルに入るまでの通過儀礼を無事パスした健介は駅周辺のパブをはしごして恵比寿公園の裏手にあるホテルに入った。

部屋に入って窓を少し開けると、一つの塊となった車の走行音や人々の話し声が流れてきた。

一応の目標は達成したという安心感と、やっと回ってきたアルコールのせいで体がやけに重たく感じられた。

健介が合成皮革のソファに腰掛けると理恵も隣に腰を下ろした。

「ね、タバコ吸っていい?」

「吸いたいんならどうぞ」

理恵はソファの前にあるテーブルから灰皿を取って健介に渡した。

「じゃあ私も吸っちゃお」

天井の青い照明が黒いエナメルバックに弾かれて微かに揺らめいた。

ポケットからタバコを出した健介は火をつけた。

彼の右肩に頭を預けた理恵もアイコスを機械に差し込んで加熱されるのを待った。

「明日が休日でよかった」

誰に向けた発したか分からない健介の呟きを理恵が拾った。

「そうね。明日休みじゃなかったらこんなゆっくりはできないしね。でも健介はバイトしないの?やたらとこの辺に慣れてるし、普通学生が通うにはちょっと高くない?それに土日なのにバイトも行かないみたいだしさ」

「そうね。バイトはしてないけど、それなりに稼いでるよ。お陰でたまにはこんな贅沢もできるわけだし」

「ふうん。その口調からしてただのぼんぼんではなさそうだね」

健介はもう何度目かになるのかも忘れた疑いに思わず失笑した。

彼は一人暮らしを始めてからほぼ全てのデートにおける勘定を自分で払っており、いつもそれなりの店を用意するので、彼にとっての先の発言は聞き慣れたものだった。

そこに興味を示す相手も少なからずいたが、彼は自分がどんな仕事をしているのかは徹底して口を割らなかった。

「そうだよ。ただのぼんぼんではないさ」

「あ、またそうやって流したな。別にいいけどさ」

健介は肩から頭を離して煙を吐き出す理恵の髪をくって軽く微笑んだ。

「古今東西、秘密の多い男こそがモテるんじゃなかったっけ」

「ドラマの見過ぎよ。気障ガキ」

二人とも一瞬口元を緩めた後、一気に目の色を変えた。

理絵が目を瞑って健介が唇を啄んだ。

絡まる舌からはタバコの匂いがした。

 初めてのデートの翌日、駅で分かれる前、理恵が次のデートに誘い、健介はそれを呑んだ。

三回目のデートは健介が誘い、その日二人は付き合い始めた。

健介が親から完全に自立していた事もあって二人の年齢差は二人の交際に取って大した壁にはならなかった。

時間があれば街に出かけて美味しいものを食べ、次の日が休みの場合は健介の家で、そうじゃなかったら理恵の家で二人は夜を過ごした。

健介が最初に感じていた“高級感”も理恵を知っていくうちに少しずつ薄れていった。

彼女の煌めくイアリングは身を守る甲冑かっちゅうで、薄く引かれたチークは心を保たす化粧けわいだったことが分かった。

二人は音楽の趣味からパスタの茹で方まで違っていたが、互いのそんな違いを楽しむことができた。

ビル・エヴァンスとバックナンバーを一緒に聞き、二通りに茹でたパスタを一緒に食べた。

別れのときは寂しさが胸を拐い、再開のときは嬉しさが胸を満たした。

それでも健介は健介で学業と株トレードに、理恵は理恵で会社の仕事に駆られ、週に一回以上合うことは殆どなかった。

そんな状況にもどかしさと息苦しさを感じた健介が同棲を提案し、理恵が喜んでと受け入れた。

二人が一緒に住み始めたのはちょうど健介が一人暮らしを始めた季節で、彼は内心自分の人生は更なるステージにあがったと感じた。

この世に一人投げ出された自分がその生まれた環境から脱し、かつ、自分の意志で選んだ相手と一緒に生きていく段階にあることに、淋しい夜が明けたことに、彼は喜んだ。

豊島区よりの北区に越してきた二人は毎晩抱き合いながら互いが互いの運命の相手だということを確かめあった。

もう二度とこんな素敵な出会いはないと囁く日々の中で、しかし、健介は気づけば後戻りできない袋小路に追い詰められていた。

 片手に持っていた文庫本が足の甲に落ちて鋭い痛みが走った。

健介の半分無意識に飲み込まれた意識は瞬時に現実世界に引っ張り戻された。

金色に輝く夕日が健介を射抜き、彼の座る椅子に長い影を落とした。

テーブルに置かれた携帯を確認すると16時31分だった。

窓の外から流れてきた懐かしい歌声が微かに鼓膜を震わせた。

粗雑なスピーカーで街全体を包み込む音は言われもない胸の痛みを呼び寄せた。

どこか特定の場所や時間が思い浮かんだわけではなかったが、とにかくどこかに戻りたかった。

刻一刻と過去に流れていく現在に向かって手を伸ばしても掴めるものなどはなっからなかった。

健介は時間の進行という耐え難き死の粒子を吸い込んで吐き出した息が白んでいくさまをじっと眺めた。

帰宅チャイムが終わって重たい静寂が彼を囲ったとき、彼は不意に顔をもたげた空腹に答えた。

「今日の晩御飯はパスタにする」

そう思い定めるとついさっきまで感じていた息苦しさが少しはマシになった、気がした。

健介は床に落ちが文庫本を拾い、出かける準備を始めた。

 同棲し始めても多忙を極める二人が顔を合わせてゆっくり会話できる時間は両方とも仕事のない土日くらいのものだった。

土曜日は二人とも溜まっていた疲労を解消すべく殆ど一日中眠りこけ、夜は出前を取るか、どこか近所の飯屋に出かけた。

そして日曜日はその前日より少し早めに起きて昼食を取り、買い物に行くか、家で互いの趣味に没頭した。

健介が本を読む傍らで理恵は両耳にイアフォンを刺してユーチューブを見た。

最初のころは健介も一緒に理恵が好きな料理動画見たり、理恵も健介がおすすめした本を読んだりしたが、結局二人とも相手の趣味には興味が持てなかった。

だからいつの間にか自然とそれぞれにやりたいことをするようになっていた。

そして夕飯はいつも決まってパスタだった。

理恵は一種病的なまでのパスタ好きで、一年三六五日三食全部パスタでもいいと思っていたが、流石に一週間連続パスタ生活を強いられた健介が音を上げ、週三くらいの頻度でなんとか収まっていた。

そしてそのおかげで健介は少し細いスパゲッティであるカペリーニから星型のステッリーネまでの何十通りの麺を、またトマトベースのポモドーロからイカ墨を使ったネーロまでに至る様々なソースと一緒に食べることとなった。

 いつかの蒸し暑かった真夏の夜、アラビアータをコンキリエと炒めたパスタを食べ、ベッドに寝転んだ健介は横で同じく天井を眺める理恵に訊いた。

「なんで理恵はこんなにパスタに執着するの?普通ここまでする人はそうそういないと思うけど」

理絵はしばらく何も言わないままゆっくりと瞬いた。

そして彼女は虚空の染みを眺めながら口を動かした。

「そうね。実は私、麺が特に好きとかそういうんじゃないんだよね。どちらかっていうと白米の方が消化しやすいし、味も好きかも」

健介は何も言わないまま彼女の続きを待った。

「でも、でもね。私、不思議と昔からパスタを食べるとなんとなく悲しくなるんだよ。どこか懐かしくて、切なくなってね。実際にイタリアに行ったこともないし、なんの関係もないのに。そんで食べる度に哀しくなるくせにまた食べずにはいられないの。パスタを食べないと体のどこかが痒くて堪らないし、頭も重ったくてしょうがなくなるから。健介くんが前に流石に食べ過ぎだと言って、回数を減らそうといってからは家ではあまり食べないけど、実は外でこっそり毎日食べてるのよ。信じられる?こんなのまるでジャンキーじゃない。他の皆が空気を吸わないと生きていけないみたいに、私はパスタがないと息ができなくなるの。こんなの馬鹿みたいでしょう?でも本当に、本当にそうなのよ。初めてパスタを口にして以来、私はパスタの奴隷になっちゃったの。最初のころはサイゼのパスタでよかったの。一皿五〇〇円程度で安いしね。でもそれも毎日積もればそれもそれなりの金額になるから学生の時なんかはパスタのためだけに一生懸命バイトまでしたの。でもどんどんそれだけじゃ物足りなくなって、色んな種類の麺を調べたり、ソースを作ってみたりと、自分で作るようになってね。そこからはもう止まらなくなったの。それにあんなカロリーの塊ばっか食べてたらあり得ないくらいふとちゃって、痩せるにも一苦労したのよ。周りからはそんなの健康に良くないとか、可笑しいとか色々言われて、特に親なんかは真剣に心配して病院まで連れて行かれたの。でも、それでも止まらなかったの。流石に親の前ではそれ以来パスタはなるべく食べないようにしてるし、周りの人にはバレないよう気を使ってるけどね」

そこまで一気に喋った理恵はふと健介の方を向いた。

「でもね。自分でも不思議だとは思うけど分からないの。なんでなにかを理由もなく真剣に追いかけるのは行けないことなの?なんでただ本当に好きなだけじゃダメなの?」

彼女のあどけない質問に健介は答えようがなかった。

彼も常に感じている、しかし、答えの見つからない問題だった。

漠然とした憧れを、届きやしないと分かってなお、追いかけるのは行けないことだろうか。

現実に沿った形になんとかそれを叩いて削らないと我々は他人に受け入れてもらえないだろうか。

「いけないことじゃないと思うよ。でも個人の欲望を他人が完全に理解するのは難しいんじゃないかな。それこそ、みんな色々あるし、その体験をその脈絡で経験しない限り、理解はできても共感まではできないからさ。きっとそれが今の人間の物理的な限界だと思うよ」

理恵は健介を見上げたまま微笑んだ。

「そう、かもね。哀しいことだよね」

「そうね。哀しいことだね」

理恵は彼の左腕を取ってそこに残る白い傷跡を見つめた。

彼が流した血を、彼が流すであろう血を静か眺めた理恵はその他人のものとは思えない傷口にそっと口付けた。

「みんなお互いのことがもっとはっきりとわかればよかったのにね」

 健介が買い物から戻ると部屋は薄闇の中に沈んでいた。

暗い玄関に靴を脱ぎ、台所の黄色い蛍光灯を灯すと熱を帯びた光が部屋の半分を弱々しく照らした。

彼は買ってきたバリラのスパゲッティ No.5とトマト缶にペペロンチーノ、そしてベーコンとマッシュルームを並べた。

板と包丁を出してベーコンとマッシュルームを刻んで中火で炒めた。

棚に戻しておいたもう一つのフライペンを出して水道水を入れ、塩を振って加熱させ、水が沸騰するまでの間、飲みかけのティーハイにウィスキーを足して少しずつ飲んだ。

レンジフードをつけては頃合いを見計らって湧き上がった麺水に麺を入れ、くっつかないように木のさじでよく混ぜながら水気を飛ばした。

水分が半分以上飛んだ時点でトマト缶を開け、適度に潰した後にペペロンチーノと一緒に麺の上に注いだ。

よく炒めたベーコンとマッシュルームを足して混ぜながら一分弱混ぜると理恵と過ごした数多の日曜日の匂いがした。

一ヶ月ぶりにちゃんとした皿にパスタを盛り付けて食卓に腰を下ろした。

結局最後まで健介は理恵がパスタを食べながら感じる感動とも、郷愁ともつかぬ感情の波に一緒に乗ることはできなかった。

それでも今ならその気持ちが少しは分かる気がして、今も地球のどこかでパスタを食べているであろう彼女を思いながら完全にひとりで、隙間なく完璧に孤独な日曜日のパスタを啜った。

不意にみた携帯は19時半を示していた。

まだ今日は終わらない。

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日曜日のパスタ 白月秋野 @siratukiakino

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