懐の凶器は、白か黒か
ニブンノイチ
懐の凶器は、白か黒か
新宿駅東口。 暴力的なほどの人混みと騒音を背に、俺はふらりとその路地へ足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れると、そこは異界だった。
古い雑居ビルの隙間。 看板の文字はハングルや中国語、あるいはどこの国とも知れない記号ばかり。 鼻孔を突き抜けるのは、クミン、八角、そして焦げた油の匂い。
日本の出汁の香りなど微塵もない。 胃袋を直接鷲掴みにするような暴力的なスパイスの香りが、この狭い路地一帯を支配している。
まるでドラえもんの『どこでもドア』で、治安の悪い異国のスラム街に放り出されたような錯覚。 神隠しとは、こういう場所で起きるのかもしれない。
だが、今の俺には、この現実感のない空気が心地よかった。
ブブブブブ……。
ポケットの中で、スマホが短い悲鳴を上げ続けている。 『鬼頭課長』。 五十回目の着信だ。
俺の名前は佐藤。三十五歳。 この着信画面を見るだけで、胃がひきつり、動悸が早まる。
俺が所属する中堅商社の営業三課は、社内でも別名「監獄」と呼ばれている。 そこを支配しているのが、鬼頭という男だ。
毎朝の朝礼という名の吊るし上げ。 深夜に及ぶサービス残業という名の拷問。 そして、人格を否定する罵詈雑言の雨あられ。
俺の同期は次々と倒れ、あるいは精神を病んで消えていった。 まるで、終わりのないデスゲームに参加させられている気分だ。
そう、あの話題になったドラマ『イカゲーム』で言えば、俺は奇跡的に生き残った最後のプレイヤー、456番といったところか。 だが、賞金なんてない。待っているのは、過労死という名のゲームオーバーだけだ。
生きていると言えるのか? 鏡に映る俺の顔は、どす黒い隈に覆われ、目は光を失っている。
時刻は十六時を回っている。 俺は今日、ついに会社を無断欠勤した。
朝、駅のホームに立った瞬間、足が動かなくなったのだ。電車に乗れば、またあの「監獄」へ連行される。そう思った瞬間、俺は逆方向の電車に飛び乗っていた。 それから数時間、俺はあてもなく彷徨い、この異界のような路地裏に流れ着いた。
俺は懐に手を当てた。 そこには、一通の封筒が入っている。 『退職願』。
会社からすればただの紙切れ。 だが、俺にとっては違う。
これを出すことは、俺のキャリアを終わらせ、安定した収入を捨て、路頭に迷うかもしれない未来を選ぶこと。 言わば、自分自身の人生を爆破する「自爆スイッチ」だ。
押せば楽になる。だが、俺もただでは済まない。
ブブブブブ……。
また電話だ。これで五十一回目。 出れば怒鳴られる。戻れば殺される(精神的に)。かといって、スイッチを押す勇気もない。
俺は、袋小路に追い詰められたネズミだった。 誰かに、決めて欲しかった。 このスイッチを押すべきか否か。
いっそのこと、スーツを着た見知らぬ男が現れて、俺にメンコ勝負を挑んでくれればいい。 そして俺が負けたら、有無を言わさずこのスイッチを押させる。 そんな理不尽な強制力でもなければ、今の俺は一歩も動けそうになかった。
ふと、路地の奥に、ダンボールの切れ端で作られた看板が見えた。
【運命の辻占 新宿のマーリン】
タロット: 4000円
霊視: 5000円
未来、見えます。
新宿のマーリン。 こんなスパイス臭い吹き溜まりで、随分と大層な名前を掲げている。
普段なら無視する。 だが、今の俺は藁にもすがりたい気分だった。
ビニールシートをくぐると、そこにはパーカーのフードを目深に被った男が座っていた。
男は、黒いベルベットの布が敷かれたテーブルの上で、タロットカードを丁寧にシャッフルしている。 その手つきは滑らかで、妙な迫力があった。
俺は吸い込まれるように、向かいの丸椅子に座った。
男は手を止めない。 視線も上げない。 ただ、カードを切りながら、低い声で言った。
「……迷っているな?」
俺はドキリとした。 一目で、俺の迷いを見抜いたというのか。
俺は乾いた唇を開いた。
「……アンタ、見えるか」
俺は懐の封筒を、服の上から強く握りしめた。
「俺が今、どんな選択を迫られているか。……そして、どうすれば俺が救われるのか」
占い師は動きを止めた。 ゆっくりと顔を上げる。フードの奥の瞳が、俺を射抜くように見つめる。
「カードに聞けば、すべて分かる」
男はテーブルの上にカードを扇状に広げた。
「一枚、引け。……それがお前の運命だ」
俺は震える手を伸ばした。 中央あたりの一枚を抜き取り、男に渡す。
男はそのカードを受け取り、テーブルの中央に置いた。 そして、パンッ、と乾いた音を立ててめくり、俺の眉間をビシッと指差した。
「……ズバリ言うわよ」
俺は面食らった。
「は? い、いや、それ……昔のテレビの……」
ふざけているのか。俺が抗議しようとした、その瞬間だ。 占い師は俺の言葉をかき消すように、ドスの利いた声で畳み掛けた。
「『塔(ザ・タワー)』の正位置だ」
「……え?」
「崩壊。破滅。……そして、予期せぬ激変だ」
俺のツッコミは、喉の奥で凍りついた。 カードに描かれていたのは、雷に打たれて崩れ落ちる、巨大な塔の絵。 そこから人々が真っ逆さまに落下している。
崩壊。 破滅。
俺の背筋に冷たいものが走った。
「……そうか。やはり、そうなるか」
俺が退職願を出せば、俺の生活は崩壊し、人生は破滅する。 このカードは、俺に「やめておけ」と警告しているのだ。
俺はガックリと項垂れた。
「やっぱり、俺は耐えるしかないのか。このデスゲームを、死ぬまで続けるしかないのか……」
俺が諦めかけた、その時だ。 占い師が、カードの絵柄を指先でトントンと叩き、強い口調で言った。
「違うな。逆だ」
「……え?」
「いいか、よく見ろ。この雷は『天啓』だ。積み上げたものが一瞬で壊れるが、それは『更地に戻る』ってことだ」
「更地に……戻る?」
「ああ。あんたが今、しがみついてるモン。……地位とか、安定とか? そんなもんは、この雷で全部ブッ壊れる」
占い師は身を乗り出し、俺の目を見てニヤリと笑った。
「……いや、ブッ壊さなきゃならねえ」
俺は衝撃を受けた。 ブッ壊さなきゃならない。
「……壊す?」
俺は問い返した。喉が鳴る。
「俺が、壊すのか? この『塔』を?」
俺の脳裏に、会社の巨大な自社ビルが浮かんだ。 あの堅牢な要塞。俺たちを閉じ込める監獄であり、デスゲームの会場。
占い師は面倒くさそうに肩をすくめた。
「ああ、そうだ。やるなら徹底的にやれ。中途半端なヒビじゃ意味がねえ。基礎からガタガタに揺らして、全部ひっくり返すくらいのつもりでな」
基礎から、揺らす。 全部、ひっくり返す。
俺の中で、何かがパチンと弾けた。
そうか。 俺は間違っていた。 「退職願を出す」なんて、生ぬるいことを考えていた。 そんな紙切れ一枚で、あの巨大な組織(塔)が揺らぐはずがない。
先生は言っているのだ。 精神論ではない。『もっと物理的に、根本から構造を破壊しろ』と。
俺の視線が彷徨い、そして一点で止まった。 会社の防災センターにある、火災報知器の制御盤。 そこには、全館に非常ベルを鳴らすボタンと、スプリンクラーを一斉作動させるレバーがある。
あれを作動させれば、ビル全体がパニックになり、業務は完全に停止する。 文字通り、会社という「塔」のインフラが崩壊する。
その混乱に乗じて、俺という存在を消してしまえばいい。 それこそが、真の「破壊と再生」……!
「……先生。アンタ、過激な人だな」
俺は震える声で言った。 この男、さらりと恐ろしいことを提案する。
「だが、分かった。……やるよ。俺の手で、あの塔に雷を落としてくる」
占い師は「へえ、やる気じゃん」と言いたげに鼻を鳴らし、カードを回収した。
「ああ、遠慮はいらねえ。……どうせリセットするなら、悪いモンは全部洗い流しちまえ。塵ひとつ残すな」
「……全部、洗い流す」
俺の腹は決まった。 非常ベルじゃない。 ただ音が鳴るだけのベルじゃ、奴らは止まらない。 もっと決定的な、「水」が必要だ。
俺は立ち上がった。 懐の封筒を取り出し、テーブルの上に置く。
「手付金だ。……この中身(退職願)は、もう俺には必要ない」
俺は財布から五千円札も出し、封筒の上に重ねた。
「行ってくる。……俺が雷を落として、世界を更地にしてくるよ」
俺は路地裏を飛び出した。 目指すは会社だ。
俺はもう迷わない。 俺はただの参加者じゃない。 俺がゲームを壊すんだ。 俺は、本物の456番になるんだ。
俺は雑踏の中を、全速力で駆け抜けた。 異国情緒あふれるスパイスの香りが、破壊と再生の匂いのように感じられた。
***
「……なんなんだ、今の客」
男の名前はケンジ。 新宿のマーリンなどと名乗っているが、その正体はただの金欠フリーターだ。
ケンジはテーブルの上の封筒と五千円札を見て、首を傾げた。
「塔のカードが出たから、『嫌なことは水に流してリセットしろ』って言っただけなんだけどな……。なんか一人で盛り上がってたな」
ケンジは客が置いていった封筒を無造作に開けた。 中から出てきたのは、白紙の便箋が一枚。 そこには、震える文字で『退職願』とだけ書かれていた。
「……は? ゴミ置いてきやがって」
ケンジはそれを丸めてポイと捨てた。 彼はまだ知らない。
あのアドバイスを「物理的な破壊指令」だと真に受けた男が、このあと会社に侵入し、ビルの防災システムをハッキングして、全フロアのスプリンクラーを一斉作動させる大惨事を引き起こすことを。
そして、ずぶ濡れで連行される男が、ニュースカメラに向かって「新宿のマーリンの予言通り、塔を洗い流した! 私は本物の456番だぁーーー!」と意味不明なことを叫ぶことを。
ケンジは呑気に、五千円を握りしめてコンビニへと向かった。 占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦。
だが、不運な男の「勘違い」だけは、百発百中で命中するのだ。
懐の凶器は、白か黒か ニブンノイチ @nibunnoichi_ai
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