3話
窓に落ちる雨粒が、乾いた教室に静かに音を残す。
沙耶は相変わらず笑っていた。
柔らかい笑顔。優しい声。
幼い頃から見慣れた、あの“いつもの”表情。
なのに。
笑っているはずなのに、
俺の背中には冷たいものが張りついていた。
「慎くん、夢の話って……どんなの?」
沙耶の声は柔らかい。
だけど、その奥に何かが潜んでいる気がした。
恵は、黙ったまま俺の後ろに立っていた。
小さな震えが、手先から伝わってくる。
(どう説明すればいいんだ……?)
夢の中の少女の話。
縁側の景色。
“慎くん”と呼ぶ声。
恵も同じ夢を見ているらしいということ。
そして、沙耶が――
なぜか、最初からその夢を知っていたような反応をしたこと。
どれも簡単には説明できない。
俺自身が、まだ理解できていないのだから。
「……大した夢じゃないよ」
苦し紛れに答えると、沙耶はすぐに問い返してきた。
「大した夢じゃないのに、そんな顔してるの?」
「どんな顔だよ」
「……わたしの知らないところで、誰かに呼ばれてるみたいな顔」
胸をなぞられるような言葉だった。
恵が小さく息をのむ。
沙耶は一歩、俺に近づく。
笑っているのに、その距離が怖いと感じたのは初めてだった。
「ねぇ慎くん。
誰に呼ばれたの?」
問いかけは優しい。
それなのに、心がざわつく。
「……ただの夢だよ。本当に」
「じゃあ」
沙耶は俺の目をのぞき込むようにして言った。
「なんで“白いワンピースの女の子”が出てくるの?」
心臓が跳ねた。
恵でさえ慎重に切り出した話題を、
沙耶はまるで最初から知っていたかのように口にした。
「お前……どうして――」
「どうして、ってなに?」
沙耶の笑顔が、ほんのわずかに歪んだ気がした。
「慎くんのことは、誰より知ってるよ?」
いつもなら嬉しいはずの言葉だった。
けれど今は――胸の奥が冷える。
◆
沈黙が落ちる。
雨音だけが、教室に薄いリズムを刻み続けていた。
恵が、震える声で口を開く。
「……沙耶ちゃん」
呼びかけは弱く、けれど必死だった。
沙耶は恵の方へゆっくりと視線を移す。
「なに、恵ちゃん?」
「その……慎太郎くんの夢のこと。
わたし、本気で心配して言っただけで……」
「心配?」
沙耶の声は静かだった。
だが、その静けさが逆に不穏さを増幅させる。
「恵ちゃんが心配しなくても大丈夫だよ。
慎くんは昔から、夢をたくさん見るんだから」
「え……?」
(昔から?)
俺はほとんど夢を覚えていない。
いや、幼いころから一貫して夢の記憶が薄いのが普通だった。
なのに沙耶は「昔から」と言った。
恵も気づいたのか、眉を寄せる。
「慎太郎くん、そんな話……」
「ねぇ慎くん」
沙耶は恵の言葉を遮るように、俺の名を呼んだ。
「夢の中の子って……可愛かった?」
どうしてそんなことを聞くんだ。
けれど、答える前に、
沙耶の瞳の奥に一瞬だけ走った光が見えた。
言葉ではない。
ただの“直感”だった。
(――答えたら、だめだ)
「……顔、見えなかったよ」
「ふーん」
沙耶はつまらなそうに笑う。
「じゃあ“誰でもいい”んだね」
「は?」
「顔が見えないなら、誰だって同じじゃん。
慎くんが気にする必要ないよ」
何を言っているんだ、この子は。
恵が小さく震えながら口を開く。
「沙耶ちゃん、それは――」
「ねぇ恵ちゃん」
沙耶は笑ったまま、言葉を重ねる。
「慎くんの夢の話、どこまで聞いたの?」
「……っ」
「どこまで、“知ってる”の?」
その言い方に、
恵はまるで糸を切られた人形のように固まった。
俺は思わず沙耶の腕を掴んだ。
「やめろよ」
「え?」
「なんでそんな言い方するんだよ。
恵は、俺を心配して――」
「心配?」
沙耶の声が、ほんの一瞬だけ低くなった。
「恵ちゃんに、慎くんを心配する理由なんてある?」
「理由って……」
「だって慎くんは――」
沙耶は確かに笑っていたのに、
その笑顔は“優しさ”ではなく、
“確信”を帯びていた。
「――わたしの、でしょ?」
教室の空気が凍りつく。
恵は肩を大きく震わせ、目を見開いた。
「……沙耶、ちゃん……?」
俺も声を失っていた。
(なんだ……今の言い方……)
沙耶の表情は一瞬だけ無垢だった。
その無垢さが逆に恐ろしい。
「沙耶……俺は――」
言いかけた時だった。
────ッ。
急に強い雨が窓を叩き、大きな音を立てた。
その音が合図のように、
沙耶はいつもの調子に戻って言った。
「慎くん、帰ろ?」
「……」
「恵ちゃん。ごめんね。
話の途中だったけど、今日はここまでね」
その言い方は丁寧なのに、拒絶がはっきり混じっていた。
恵は何か言いたそうに口を開くが、
声にならなかった。
沙耶は俺の腕を“そっと”掴む。
優しい手つき。
昔から変わってない。
それなのに――
逃げられない感覚が、指先からじわりと染み込んでくる。
「慎くん?」
顔を上げると、沙耶は首を傾げて笑っていた。
「帰ろ?」
◆
校舎を出ると、雨はさらに強くなっていた。
傘もささずに濡れた地面を歩く。
家までの道はいつもより暗く、重い。
「ねぇ慎くん」
「……なんだよ」
「さっきの話、まだしてないよね」
「夢のことか?」
「うん」
沙耶は足を止め、俺の横に立つ。
「慎くん、怖かった?」
「……夢が?」
「ううん」
沙耶の声は、雨音よりもずっと静かだった。
「恵ちゃんがさ。
慎くんの“知らないこと”を知ってるみたいに話すから」
「……それは」
「わたし、驚いたよ。
だって慎くんのこと、一番知ってるのはわたしだと思ってたから」
沙耶はうつむき、雨の粒を指で弾く。
「慎くんの好きな食べ物も、
嫌いな授業も、
よく寝落ちする時間も、
努力してるときの顔も、
泣きそうなときの顔も……」
雨が強くなり、言葉がかき消されそうになる。
「でも夢は……わたし、知らないんだね」
「沙耶……」
「知らなかったこと、すごくショックだった」
その一言が、胸に刺さった。
「お前……そこまで考えて――」
「だって」
沙耶は顔を上げた。
その瞳は濡れていた。
雨のせいなのか、涙なのかは分からない。
「慎くんは、わたしのすべてなんだから」
笑顔。
それなのに――胸がざわついた。
どこかで見たことがある。
夢の中の少女が浮かび、すぐに消えた。
「ねぇ慎くん」
「……あ?」
「その子の名前、覚えてないよね?」
沙耶が言った「その子」が誰なのか、
俺にはわからない。
けれど――
“この質問をしている理由だけは”理解できてしまった。
「顔も、忘れてるよね?」
沙耶の声は優しい。
優しいのに、刺すように鋭い。
「安心して」
雨の中、沙耶はそっと手を伸ばし、俺の頬に触れた。
「わたしが……全部思い出させてあげるから」
囁くように。
壊れそうなほど静かに。
でも、その言葉は背筋を冷やすのに十分だった。
◆
その夜。
夢を見た。
縁側の景色。
夕暮れの光。
スイカの匂い。
白いワンピースの少女が、こちらを見て微笑んでいる。
少しだけ見える指先。
小さなほくろ。
『慎くん』
呼ばれた声は優しかった。
でも――
『覚えてる……よね?』
そう聞かれて、息が詰まった。
覚えていない。
なのに、胸は締めつけられるほど苦しくなる。
『わたし……待ってるからね』
少女の顔が、ほんの一瞬だけ浮かんだ気がした。
そして夢は暗闇に溶けた。
目を開けたとき、胸の奥に焼けつくような痛みだけが残っていた。
(……俺はいったい、誰を忘れてるんだ)
問いかけても、答えはなかった。
ただ、雨の音だけがずっと鳴り続けていた。
思い出さなくていいよ。全部、私覚えてるから。 ロク @bankei65892
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