2話



 翌朝、教室の空気はどこか湿っていた。

 雨が降っていたせいだけではない。

 俺の胸の奥にも、まだ昨夜の夢の残り香がへばりついていた。


(なんなんだ、あの夢……)


 白いワンピースの少女。

 顔の見えない笑み。

 呼ばれた「慎くん」という声だけが、妙に鮮明だった。


「おはよ、慎くん」


 聞き慣れた声に顔を上げると、沙耶が教室に入ってきたところだった。

 いつも通りの軽い足取り。

 いつも通りの笑顔。

 それなのに、胸がちくりと痛む。


 理由は分かっていた。


(夢の中の“慎くん”が……俺を呼んでた声に似てたからか?)


 本当は違う。

 沙耶が呼ぶ声とまったく同じではなかった。

 けれど、どこか重なる気がしてしまった。


「どうしたの? ぼーっとしてる」


「ああ、いや……ちょっと寝不足で」


「また変な夢?」


「……また、ってなんで分かるんだよ」


「慎くん、疲れてる時いつも眉の間が寄るんだよ。ほら、こういう感じの」


 沙耶は指で真似してみせた。

 その表情が妙に似ていて、思わず苦笑する。


「そんな顔してたか?」


「してたよー。だから、今日の放課後は無理しちゃダメね」


 沙耶が言った“放課後”という言葉に、昨日のことが頭をよぎった。


 恵の、あの少しすがるような声。


『……放課後、時間ある?』


 答えられなかった。

 いや――答える勇気がなかった。


 沙耶は俺の表情の変化に気づいたようで、少しだけ首を傾げる。


「……慎くん、今日の放課後、誰かと約束あるの?」


「いや、別に……」


 その瞬間だった。


「おはよう、二人とも」


 柔らかい声が割り込んだ。

 下村恵だった。


 沙耶が「おはよう」と元気よく返す。

 恵も微笑んだが、その視線は一瞬だけ俺の表情を探るように動いた。


「千葉くん、昨日の話……またの機会にしよって言ったけど、うん……焦らなくて大丈夫だからね」


「……ああ」


 恵の声は冷たくない。

 むしろ優しい。

 優しいのに、胸の奥が少し沈む。


 俺が逃げた、という事実だけが残ってしまうからだ。


 沙耶は場の空気に気づかないわけではないが、あえて触れない。

 ただ淡々と自分の席に向かった。


 恵も静かに席へ戻っていく。


 残された俺だけが、その二人の背中を見ながら小さな違和感を抱えていた。


(なんで……こんなに気まずいんだ)



 昼休み。

 沙耶と一緒に屋上へ向かった。


 雨は止んでいた。

 濡れたコンクリートが光を反射していて、空気はまだ湿ったままだった。


 フェンス越しに街を見下ろしながら、沙耶が小さなパンを開く。


「ねぇ、慎くん」


「ん?」


「最近、本当に寝れてないの?」


「……夢を見るんだよ」


「どんな?」


 少し迷ったが、隠す必要もないと思い、話した。


「白いワンピースの……顔が見えない女の子が出てくる。

 一緒に縁側に座ってスイカ食べてて……。

 なんか、すげえ懐かしい気がするんだけど、記憶にはないんだよ」


 沙耶の手が止まった。


「縁側……?」


「ああ」


「指に……小さなほくろがあったり……する?」


 心臓が跳ねた。


「……なんで知ってるんだよ」


 沙耶は一瞬、冷たいほど無表情になった。

 ほんの一秒。

 けれど、その一秒に胸がざわつく。


「……なんとなく、聞いただけ」


「なんだよ、それ」


「慎くんの夢だし、わたしが知るわけないよね」


 沙耶は笑った。

 いつもの笑顔――のはずだ。


 でも、どこか違う。

 ほんの少しだけ張り付いたように見えた。


「……もしかして、心当たりある?」


「ないよ」


 即答だった。


 その速さが、逆に妙だった。


「沙耶。ほんとに?」


「ほんと。気にしすぎだよ」


 沙耶は話を切るようにパンの袋を丸め、ポケットに押し込んだ。


「慎くん、今日さ……放課後、一緒に帰らない?」


 沙耶の声は、さっきより柔らかかった。

 それなのに、なぜか胸がざわつく。


「……恵が、昨日話したいって言ってた」


「……そっか」


 沙耶は視線を少し落とした。


 痛いほど静かな間が流れた。


 そして顔を上げ、作り笑いのような笑みを浮かべる。


「ううん、大丈夫。慎くんの予定が優先だよ。

 わたし、ちょっと委員会あるし」


「委員会?今日だっけ?」


「……うん。今日だよ」


 少し間を置いてから答えたその声は、どこか強張っていた。


(……委員会なんて、やってたか?)


 そんな疑問も浮かんだが、口にはしなかった。


 沙耶は立ち上がり、フェンス越しに空を見上げた。


「また……雨、降るかもね」


 空はまだ白く曇っていた。


 沙耶の言葉に、何か含まれている気がしてならない。



 放課後。


 教室の前で、恵が待っていた。


「千葉くん……少し歩かない?」


 表情はいつもの柔らかさのままだけど、

 目の奥にいつもより強い光があった。


 俺はうなずき、並んで廊下を歩き始める。


「千葉くん、昨日のこと。

 わたし、無理に聞き出そうとは思ってないからね」


「……ああ」


「でもね、どうしても言いたいことがあって」


 恵は立ち止まり、こちらをまっすぐ見た。


 普段の恵よりも、少しだけ弱い表情。


「千葉くん、最近……誰かに追われてるみたいな顔してるよ」


「追われてる?」


「うん。わたし、すごく心配で……」


 心臓が一度止まるような感覚があった。


 追われてる。

 その言葉は、夢の残響を正確に突いてくる。


「もしかして……夢のこと?」


「夢?」


「いや……何でもない」


 恵は目を細めた。

 じっと観察するような、真剣なまなざし。


「ねえ、千葉くん」


「ん?」


「……誰かに名前、呼ばれてない?」


 声が震えていた。


「“慎くん”って」


 呼吸が止まる。


 その瞬間――背筋にぞわりと冷たいものが走った。


「なんで……」


 喉が乾く。


「なんで、それを……」


 恵は唇を噛みしめ、震える声で答えた。


「……怖い夢を見たの。

 白いワンピースの女の子が出てきて……

 “慎くん”って呼んでた」


 世界が揺れる。


 俺と恵――同じ夢?


 そんなはず、あるのか?


「千葉くん。

 その子の顔、見えなかったよね?」


 恵の声がかすかに震えている。


 俺は黙ってうなずいた。


 恵は胸元で指を組み、そっと問う。


「その子の指先に……ほくろ、なかった?」


 鼓動が、痛いほど響く。


 どうして――

 どうして俺の夢を、こんなに正確に知っている?


「恵……お前、何を知って――」


 言葉の途中で、教室の扉が開いた。


 沙耶が立っていた。


 笑顔で。

 いつもの笑顔で。


 でも――その目だけが笑っていなかった。


「慎くん、恵ちゃん……なに話してるの?」


 雨が降り出す気配がした。


 沙耶の背後の窓に、ぽつりと水滴が落ちる。


 空気が一瞬で冷たくなった。


 恵は肩を震わせ、小さく後ずさる。


 そして――

 沙耶の視線が、静かに俺へ向けられた。


「ねぇ、慎くん」


 雨の音が、教室に広がり始める。


「その“夢の話”……わたしにも教えて?」


 その声は、優しいのに。

 優しいはずなのに。


 背中が、ぞくりとした。


 なぜだろう。

 なぜか――

 逃げなきゃいけない気がした。

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