思い出さなくていいよ。全部、私覚えてるから。

ロク

1話

もし、自分に“特別な才能”があったら。


 子どもの頃、眠れない夜になるとよくそんなことを考えた。


 サッカーをやれば一瞬でレギュラー。

 ピアノに触れば、すぐ人前で弾けるようになる。

 少し勉強しただけで、模試はいつも上位。


 現実の俺は、そのどれにも当てはまらない。


 高校二年の夏。

 俺――千葉慎太郎は、今日もそんな現実と向き合っていた。



「千葉ー。次」


 担任のだるそうな声に呼ばれて、前に出る。


 差し出されたプリントの左上には、赤ペンで丸がついていた。


 82点。


 悪くはない。胸を張るほどでもない。


(……結局、ここなんだよな)


 平均よりは上。でも、「すごい」とは言われない位置。

 そんな点数を、もう何度も見てきた。


 席に戻ろうとしたとき、隣の列で立ち上がる影が見えた。


 下村恵。


 黒髪をひとつにまとめた、整った顔立ちの女子だ。

 学年で名前を知らないやつはいない。


 成績は常にトップクラス。

 運動神経も悪くない。

 男子からも女子からも好かれていて、噂ではファンクラブまであるらしい。


 そんな彼女が、答案を受け取るとき、少しだけ表情を崩した。


 それが、悔しさなのか、安堵なのかは分からない。

 ただ、俺にはない何かを持っているんだろうと、そう思わせる何かだった。


 席に戻ると、すぐに声をかけられた。


「慎太郎くん、どうだった?」


 机に答案を置く前に、恵が覗き込んでくる。


 距離が近い。

 黒目がちの瞳が、まっすぐこっちを見ていた。


「……普通」


「普通?」


 首を傾げられて、しぶしぶ答案を見せる。


「八十二点か。すごいじゃない」


「いや、すごくはないだろ」


「わたしからしたら、十分すごいよ。いつも安定してるし」


 恵はそう言って、今度は自分の答案を少しだけ持ち上げた。


 視線が勝手に、そこに吸い寄せられる。


 100点。


(やっぱりな)


 心のどこかで予想していた数字が、そこにあった。


 恵は気まずそうに笑う。


「あ、これ言うの、感じ悪かったかな……ごめん。自慢したかったわけじゃなくて」


「いや、別に。事実だし」


 本当に、嫌味な感じは一切ない。

 ただ、素直に「できた」ことを伝えたかったんだろう。


 分かってはいる。

 それでも、胸の奥が少しざらつく。


 俺がどれだけ勉強してもたどり着けない場所に、

 彼女はちゃんと立っているんだと思い知らされるからだ。


 恵は俺の表情を読んだのか、小さく息を吸った。


「……慎太郎くん。最近、少し疲れてる?」


「え?」


「テストの時もそうだったし、ここんとこずっと。

 なんか、前より自分を責めてるように見えるから」


(見られてたのか)


 そんな顔、してたんだな、と他人事のように思う。


「責めてるってほどじゃないけど……まあ、うまくいかないなとは思ってる」


「うまくいかない?」


 恵は少しだけ目を伏せてから、俺を見た。


「……放課後、少しだけ時間ある?

 もし良かったら、話したいことがあるんだ」


「話?」


「うん。無理にとは言わないけど」


 恵の声は、いつもより少しだけ慎重だった。


 なにかを決意した人間の声。

 そんなふうに感じた。


 だけど、俺はすぐにはうなずけなかった。


「……あとで返事する」


「うん」


 恵はそれ以上何も言わず、答案をノートの間に挟んだ。


 その動きが妙に丁寧で、胸に引っかかる。



 昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、教室の扉が開いた。


「慎くん」


 名前を呼ぶ声は、聞き慣れたものだった。


 顔を向けると、栗色のショートヘアの少女が立っていた。

 明るい茶色の瞳。素朴な顔つきなのに、人目を引く。


 沙耶。俺の幼なじみだ。


「今日、お弁当持ってきたから、一緒に食べよ」


 それだけ言って、当たり前のように俺の机の横に立つ。


 周りのクラスメイトは、特に驚きもしない。

 もう見慣れた光景なのだろう。


「……いいけど。どこで?」


「いつもの空き教室。もう窓も開けてある」


 準備の良さに、少し苦笑する。


「じゃあ、行くか」


 立ち上がって横を向くと、視線がぶつかった。


 恵がこちらを見ていた。


 ぱっと笑みを浮かべる。


「沙耶ちゃん、今日もお弁当?」


「うん。慎くんの分もあるよ」


「そっか。……いいな」


 恵はそれだけ言って、自分の鞄から小さめの弁当箱を取り出した。


 その顔からは、感情を読み取りづらい。


 沙耶がふと俺の袖をつまむ。


「行こ?」


 細い指先の感触が、布越しに伝わってくる。


「ああ」


 恵に一言何か言うべきなんだろうか、という考えが頭をよぎったが、

 ちょうどそのとき別のクラスメイトが恵に話しかけた。


 タイミングを逃した俺は、そのまま教室を後にした。



 空き教室は、昼休みには珍しく誰もいなかった。


 窓からは柔らかい光が入り、風がカーテンをゆっくり揺らしている。


 沙耶が机を一つ引き寄せ、弁当箱を二つ並べた。


「はい、こっちが慎くんの」


「……ありがとう」


 蓋を開けると、彩りのいいおかずがぎっしり詰まっていた。

 卵焼き、照りのいい唐揚げ、ほうれん草のおひたし。


「ちゃんと野菜も入ってます」


「保健室の先生みたいなこと言うなよ」


「最近、コンビニのパンばっかり食べてるって言ってたの、誰だっけ?」


「……すみませんでした」


 軽くやりとりをしてから、一口食べる。


「……うまいな」


「うん。よかった」


 沙耶はほっとしたように息をつき、自分の弁当にも箸を伸ばした。


 しばらく、二人で黙々と食べる時間が続く。

 外からは、グラウンドの掛け声と蝉の声が混じって聞こえてくる。


 ふと、視線を感じて顔を上げた。


「……何だよ」


「ん。慎くん、やっぱり今日は少し元気ない」


 沙耶は、真っ直ぐこちらを見ていた。


「テスト、そんなに悪かったの?」


「いや、点数はいつも通りだよ」


「いつも通り、か」


 沙耶は少しだけ目を細める。


「それがいやなんだね」


「……分かるのかよ」


「分かるよ」


 即答だった。


「中学のときから見てるもん。

 レギュラー取れなかったときも、テストで一位じゃなかったときも、

 慎くん、自分のことを一番きびしく責めてた」


 言われてみれば、そんな気もする。


 周りは「ドンマイ」とか「十分うまいよ」とか言ってくれていたけれど、

 俺の中だけは、いつも納得していなかった。


「……才能がないんだよ、俺は」


 思わず言葉がこぼれた。


「努力しても、そこそこで終わる。

 恵みたいに、一番上には行けない」


 沙耶は、少しだけ黙っていた。

 何かを選ぶような間だった。


 そして、静かに口を開く。


「たしかに、慎くんは“天才”って感じじゃないかもしれない」


 あまりにも正直な言葉に、思わず顔をしかめる。


「慰める気、ある?」


「あるよ」


 即答だった。

 いつものふざけた調子とは違う、落ち着いた声音。


「天才ってさ、スタート地点が高いだけで、

 その人が全部苦労してるってわけじゃないと思う」


「……まあ、そうかもな」


「でも、努力し続けられる人は、ちゃんと自分で歩いてる人でしょ。

 慎くんは、そういう人だよ」


 あっさりと言われて、返事に困る。


「中学のとき、部活やめなかったでしょ。

 ベンチでも、最後までちゃんと練習に行ってた」


「……よく覚えてるな」


「近くで見てたからね」


 沙耶は、ほんの少しだけ笑った。


「そういうの、わたしはすごいと思う。

 才能がある人より、努力してる人のほうがずっとかっこいい」


 その言葉は、少しこそばゆかった。


 けれど、どこかでずっと欲しかった言葉でもあった。


「……お前さ、そういうこと平気で言うよな」


「本当にそう思ってるから」


 沙耶は当たり前のように言う。


「だから、慎くんが“普通だ”って自分を下に見てるの、見ててつらいよ」


 丁寧に言葉を選んでいるのが分かった。


 俺のことを傷つけたくないけれど、伝えたいことはちゃんと伝えたい――

 そんな迷いが、声の端っこに滲んでいる。


「……悪いな」


 そう答えるのが精一杯だった。


 ありがとう、と言えればよかったのに。

 それを口にするには、まだ少し勇気が足りなかった。



 放課後。


 教室には、もう数人しか残っていなかった。


 椅子を机にあげる音、掃除当番の話し声。

 窓の外には、赤みを帯びた光が差し込んでいる。


 鞄を肩にかけて立ち上がると、恵がこちらを見た。


「千葉くん」


 静かな声だった。


 昼休みとは違う、少しだけ緊張を含んだ声。


「さっきの……放課後の話、なんだけど」


「ああ……」


 約束していたわけじゃない。

 でも、恵はずっと待っていたんだろう。


 机の上は片づけられていて、鞄も準備してある。

 それでも席を立たずにいたのは、俺の返事を待っていたからだ。


 そこまで分かっていながら、俺の口から出た言葉は、


「……悪い。今日はちょっと、やめとく」


 だった。


 恵の表情が、ほんのわずかに揺れる。


「……そう。分かった」


 すぐに、いつもの笑顔が作られた。


「また、今度にしようか」


「ああ」


 教室を出ようとしたとき、

 背中に視線を感じた気がした。


 振り返ることは、どうしてもできなかった。



 その夜、俺は変な夢を見た。


 木造の家の縁側。

 夕方の光。

 どこか懐かしい、夏のにおい。


 小さな自分が、スイカを食べて座っている。

 隣には、白いワンピースを着た少女。


 風鈴の音が、小さく鳴っていた。


 少女の顔は、なぜか影になって見えなかった。

 ただ、指先に小さなほくろがあるのだけは分かった。


 その少女が、俺のほうを向いて言う。


『慎くん』


 胸のどこかがぎゅっとして、息が詰まる。


 呼ばれ慣れているはずの呼び方なのに、

 なぜか、ものすごく遠い場所から呼ばれた気がした。


『また、会えた』


 少女がそう言って笑ったように見えた瞬間、

 視界が暗くなった。


 俺はベッドの上で上体を起こした。


 心臓の鼓動が早い。

 喉が痛いほど乾いている。


 スマホの画面を見ると、午前二時を少し過ぎたところだった。


「……なんだ、今の」


 夢にしては、やけに鮮明だった。

 縁側の木の感触も、スイカの甘さも、ちゃんと残っている。


 なにより。


(あの子……誰だ)


 顔が思い出せない。

 名前も分からない。


 それなのに、胸の奥がずっとざわついている。


 目を閉じると、また夢の続きに引きずり込まれそうな感覚がして、

 しばらく眠れなかった。


 その日を境に、俺は何度も同じ夢を見るようになる。


 白いワンピースの少女。

 顔の見えない笑顔。

 指先の小さなほくろ。


 それが、これからの俺の日常を少しずつ変えていくことになるなんて、

 そのときの俺はまだ知らなかった。

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