思い出さなくていいよ。全部、私覚えてるから。
ロク
1話
もし、自分に“特別な才能”があったら。
子どもの頃、眠れない夜になるとよくそんなことを考えた。
サッカーをやれば一瞬でレギュラー。
ピアノに触れば、すぐ人前で弾けるようになる。
少し勉強しただけで、模試はいつも上位。
現実の俺は、そのどれにも当てはまらない。
高校二年の夏。
俺――千葉慎太郎は、今日もそんな現実と向き合っていた。
◆
「千葉ー。次」
担任のだるそうな声に呼ばれて、前に出る。
差し出されたプリントの左上には、赤ペンで丸がついていた。
82点。
悪くはない。胸を張るほどでもない。
(……結局、ここなんだよな)
平均よりは上。でも、「すごい」とは言われない位置。
そんな点数を、もう何度も見てきた。
席に戻ろうとしたとき、隣の列で立ち上がる影が見えた。
下村恵。
黒髪をひとつにまとめた、整った顔立ちの女子だ。
学年で名前を知らないやつはいない。
成績は常にトップクラス。
運動神経も悪くない。
男子からも女子からも好かれていて、噂ではファンクラブまであるらしい。
そんな彼女が、答案を受け取るとき、少しだけ表情を崩した。
それが、悔しさなのか、安堵なのかは分からない。
ただ、俺にはない何かを持っているんだろうと、そう思わせる何かだった。
席に戻ると、すぐに声をかけられた。
「慎太郎くん、どうだった?」
机に答案を置く前に、恵が覗き込んでくる。
距離が近い。
黒目がちの瞳が、まっすぐこっちを見ていた。
「……普通」
「普通?」
首を傾げられて、しぶしぶ答案を見せる。
「八十二点か。すごいじゃない」
「いや、すごくはないだろ」
「わたしからしたら、十分すごいよ。いつも安定してるし」
恵はそう言って、今度は自分の答案を少しだけ持ち上げた。
視線が勝手に、そこに吸い寄せられる。
100点。
(やっぱりな)
心のどこかで予想していた数字が、そこにあった。
恵は気まずそうに笑う。
「あ、これ言うの、感じ悪かったかな……ごめん。自慢したかったわけじゃなくて」
「いや、別に。事実だし」
本当に、嫌味な感じは一切ない。
ただ、素直に「できた」ことを伝えたかったんだろう。
分かってはいる。
それでも、胸の奥が少しざらつく。
俺がどれだけ勉強してもたどり着けない場所に、
彼女はちゃんと立っているんだと思い知らされるからだ。
恵は俺の表情を読んだのか、小さく息を吸った。
「……慎太郎くん。最近、少し疲れてる?」
「え?」
「テストの時もそうだったし、ここんとこずっと。
なんか、前より自分を責めてるように見えるから」
(見られてたのか)
そんな顔、してたんだな、と他人事のように思う。
「責めてるってほどじゃないけど……まあ、うまくいかないなとは思ってる」
「うまくいかない?」
恵は少しだけ目を伏せてから、俺を見た。
「……放課後、少しだけ時間ある?
もし良かったら、話したいことがあるんだ」
「話?」
「うん。無理にとは言わないけど」
恵の声は、いつもより少しだけ慎重だった。
なにかを決意した人間の声。
そんなふうに感じた。
だけど、俺はすぐにはうなずけなかった。
「……あとで返事する」
「うん」
恵はそれ以上何も言わず、答案をノートの間に挟んだ。
その動きが妙に丁寧で、胸に引っかかる。
◆
昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、教室の扉が開いた。
「慎くん」
名前を呼ぶ声は、聞き慣れたものだった。
顔を向けると、栗色のショートヘアの少女が立っていた。
明るい茶色の瞳。素朴な顔つきなのに、人目を引く。
沙耶。俺の幼なじみだ。
「今日、お弁当持ってきたから、一緒に食べよ」
それだけ言って、当たり前のように俺の机の横に立つ。
周りのクラスメイトは、特に驚きもしない。
もう見慣れた光景なのだろう。
「……いいけど。どこで?」
「いつもの空き教室。もう窓も開けてある」
準備の良さに、少し苦笑する。
「じゃあ、行くか」
立ち上がって横を向くと、視線がぶつかった。
恵がこちらを見ていた。
ぱっと笑みを浮かべる。
「沙耶ちゃん、今日もお弁当?」
「うん。慎くんの分もあるよ」
「そっか。……いいな」
恵はそれだけ言って、自分の鞄から小さめの弁当箱を取り出した。
その顔からは、感情を読み取りづらい。
沙耶がふと俺の袖をつまむ。
「行こ?」
細い指先の感触が、布越しに伝わってくる。
「ああ」
恵に一言何か言うべきなんだろうか、という考えが頭をよぎったが、
ちょうどそのとき別のクラスメイトが恵に話しかけた。
タイミングを逃した俺は、そのまま教室を後にした。
◆
空き教室は、昼休みには珍しく誰もいなかった。
窓からは柔らかい光が入り、風がカーテンをゆっくり揺らしている。
沙耶が机を一つ引き寄せ、弁当箱を二つ並べた。
「はい、こっちが慎くんの」
「……ありがとう」
蓋を開けると、彩りのいいおかずがぎっしり詰まっていた。
卵焼き、照りのいい唐揚げ、ほうれん草のおひたし。
「ちゃんと野菜も入ってます」
「保健室の先生みたいなこと言うなよ」
「最近、コンビニのパンばっかり食べてるって言ってたの、誰だっけ?」
「……すみませんでした」
軽くやりとりをしてから、一口食べる。
「……うまいな」
「うん。よかった」
沙耶はほっとしたように息をつき、自分の弁当にも箸を伸ばした。
しばらく、二人で黙々と食べる時間が続く。
外からは、グラウンドの掛け声と蝉の声が混じって聞こえてくる。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
「……何だよ」
「ん。慎くん、やっぱり今日は少し元気ない」
沙耶は、真っ直ぐこちらを見ていた。
「テスト、そんなに悪かったの?」
「いや、点数はいつも通りだよ」
「いつも通り、か」
沙耶は少しだけ目を細める。
「それがいやなんだね」
「……分かるのかよ」
「分かるよ」
即答だった。
「中学のときから見てるもん。
レギュラー取れなかったときも、テストで一位じゃなかったときも、
慎くん、自分のことを一番きびしく責めてた」
言われてみれば、そんな気もする。
周りは「ドンマイ」とか「十分うまいよ」とか言ってくれていたけれど、
俺の中だけは、いつも納得していなかった。
「……才能がないんだよ、俺は」
思わず言葉がこぼれた。
「努力しても、そこそこで終わる。
恵みたいに、一番上には行けない」
沙耶は、少しだけ黙っていた。
何かを選ぶような間だった。
そして、静かに口を開く。
「たしかに、慎くんは“天才”って感じじゃないかもしれない」
あまりにも正直な言葉に、思わず顔をしかめる。
「慰める気、ある?」
「あるよ」
即答だった。
いつものふざけた調子とは違う、落ち着いた声音。
「天才ってさ、スタート地点が高いだけで、
その人が全部苦労してるってわけじゃないと思う」
「……まあ、そうかもな」
「でも、努力し続けられる人は、ちゃんと自分で歩いてる人でしょ。
慎くんは、そういう人だよ」
あっさりと言われて、返事に困る。
「中学のとき、部活やめなかったでしょ。
ベンチでも、最後までちゃんと練習に行ってた」
「……よく覚えてるな」
「近くで見てたからね」
沙耶は、ほんの少しだけ笑った。
「そういうの、わたしはすごいと思う。
才能がある人より、努力してる人のほうがずっとかっこいい」
その言葉は、少しこそばゆかった。
けれど、どこかでずっと欲しかった言葉でもあった。
「……お前さ、そういうこと平気で言うよな」
「本当にそう思ってるから」
沙耶は当たり前のように言う。
「だから、慎くんが“普通だ”って自分を下に見てるの、見ててつらいよ」
丁寧に言葉を選んでいるのが分かった。
俺のことを傷つけたくないけれど、伝えたいことはちゃんと伝えたい――
そんな迷いが、声の端っこに滲んでいる。
「……悪いな」
そう答えるのが精一杯だった。
ありがとう、と言えればよかったのに。
それを口にするには、まだ少し勇気が足りなかった。
◆
放課後。
教室には、もう数人しか残っていなかった。
椅子を机にあげる音、掃除当番の話し声。
窓の外には、赤みを帯びた光が差し込んでいる。
鞄を肩にかけて立ち上がると、恵がこちらを見た。
「千葉くん」
静かな声だった。
昼休みとは違う、少しだけ緊張を含んだ声。
「さっきの……放課後の話、なんだけど」
「ああ……」
約束していたわけじゃない。
でも、恵はずっと待っていたんだろう。
机の上は片づけられていて、鞄も準備してある。
それでも席を立たずにいたのは、俺の返事を待っていたからだ。
そこまで分かっていながら、俺の口から出た言葉は、
「……悪い。今日はちょっと、やめとく」
だった。
恵の表情が、ほんのわずかに揺れる。
「……そう。分かった」
すぐに、いつもの笑顔が作られた。
「また、今度にしようか」
「ああ」
教室を出ようとしたとき、
背中に視線を感じた気がした。
振り返ることは、どうしてもできなかった。
◆
その夜、俺は変な夢を見た。
木造の家の縁側。
夕方の光。
どこか懐かしい、夏のにおい。
小さな自分が、スイカを食べて座っている。
隣には、白いワンピースを着た少女。
風鈴の音が、小さく鳴っていた。
少女の顔は、なぜか影になって見えなかった。
ただ、指先に小さなほくろがあるのだけは分かった。
その少女が、俺のほうを向いて言う。
『慎くん』
胸のどこかがぎゅっとして、息が詰まる。
呼ばれ慣れているはずの呼び方なのに、
なぜか、ものすごく遠い場所から呼ばれた気がした。
『また、会えた』
少女がそう言って笑ったように見えた瞬間、
視界が暗くなった。
俺はベッドの上で上体を起こした。
心臓の鼓動が早い。
喉が痛いほど乾いている。
スマホの画面を見ると、午前二時を少し過ぎたところだった。
「……なんだ、今の」
夢にしては、やけに鮮明だった。
縁側の木の感触も、スイカの甘さも、ちゃんと残っている。
なにより。
(あの子……誰だ)
顔が思い出せない。
名前も分からない。
それなのに、胸の奥がずっとざわついている。
目を閉じると、また夢の続きに引きずり込まれそうな感覚がして、
しばらく眠れなかった。
その日を境に、俺は何度も同じ夢を見るようになる。
白いワンピースの少女。
顔の見えない笑顔。
指先の小さなほくろ。
それが、これからの俺の日常を少しずつ変えていくことになるなんて、
そのときの俺はまだ知らなかった。
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