第29話 薬草店の看板が揺れる日

 夏の風が、森の奥から吹き抜けてきた。

 その風はどこか懐かしい香りを運んでくる。乾いたハーブと陽に焼けた木の匂い、土の熱気とともに、生命のざわめきが響いていた。


 丘の上から見下ろすと、ルナフィアの村が柔らかい陽光に包まれている。

 田畑には青々とした穂が揺れ、子どもたちが笑いながら水路を走り抜けていた。

 村の中央には、あの小さな薬草店――見慣れた我が家の屋根が見える。

 「一年が経ったんだな」

 呟くと、隣を歩くミアが振り向いた。

 「そっか、もう丸一年か。わたしとライルが出会って」

 「そうだ。思えば、ここに来た日は真っ白な霧の中だった」

 「森があなたを導いた日だよ」

 ミアが笑い、その尻尾が陽光を浴びてきらめく。


 店に戻ると、ベル婆さんが玄関前で木板を磨いていた。

 「おや、ちょうど帰ってきたね。看板を直してたんだよ」

 見れば、そこには“森裏の薬草店”という文字。

 開店当初から使っていたが、雨風で半分ほどかすれてしまっていた。

 「いい加減新しいのに取り替えましょうか」

 「いや、それを磨くのがいいんだよ。歳を取るほど艶が出る。人間も同じさ」

 ミアが両手を腰に当てて笑う。

 「じゃあ、わたしもピカピカだね!」

 「そりゃあ、森の精が磨いてくれてるんだろうさ」

 老獣人の冗談に声を上げる。


 昼過ぎ、旅商人の姿が村に現れた。

 「魔の谷を越えて来た。ここで休ませてもらってもいいか?」

 日焼けした顔、肩に背負った荷。懐かしいようで、どこか警戒心を保った様子だった。

 「ここは旅人にも風が優しい村です。薬茶を用意しますから、ゆっくりしていってください」

 ライルが湯を沸かす間に、ミアは商人の背負う荷袋を覗いた。

 「ねえ、これ何?」

 「古地図さ。北の帝都から流れ着いた代物だ。古代文字で風の道を書いてある」

 紙は古びていたが、細かな線が複雑に走っている。まるで風の流れそのもののようだ。

 「こいつを見て歩くだけで、不思議と風に道案内されるんだ」

 商人の言葉にミアの目が輝く。

 「いいね、旅の地図って!」

 「お客さん、旅は長いのに、ここでしばらく休むんですか?」

 「森を越える風が、少し乱れてる。待ったほうが吉だと香草売りに言われてね」


 その言葉に、ライルの胸にわずかな不安が差す。

 森の風――去年の封印のときも、同じような前兆があった。

 「何か、感じるの?」

 ミアの問いに微笑んで答える。

 「少しはな。でも大丈夫だ。森はもう以前とは違う。それより茶だ」


 茶を飲みながら、旅商人は静かに語った。

 「西の山で、風祈りの跡地に花が咲いたらしい。青い光を放つ花だとか」

 「……それは、ティルの祖株だな」

 「え?」

 「森の再生を告げる花だ。精霊の加護を得てしか咲かないと言われている」

 「そいつは縁起がいい。きっと風が森を見直したんだな」

 その話にベル婆さんは満足げに頷いた。

 「森が治れば、人も治る。いい知らせだよ」


 だが、その夜。

 店の看板が風に揺れている音で目が覚めた。

 風は柔らかいのに、板が不規則に鳴る。

 ――カタン、カタン、と夜の静けさを打つ音。

 外へ出ると、森の奥が淡く光っていた。

 「ミア、起きてるか?」

 「うん……また光?」

 丘の上とは違う、深い緑の奥。木々の間で青白い霧が揺れている。

 「封印ではない。これは――」

 近づくと、そこには獣人の子らがいた。

 「ねえ、ライル先生。風が呼んでるって」

 小さな子が指差した。森の中に、小さな輪ができている。

 草の葉が円形に寝押され、中央で青く光っていた。

 「ティルの祖株……!」

 光は穏やかで、痛みではなく安らぎを放っている。

 ベル婆さんが後ろから歩いてきて、静かに言った。

 「森が恩返ししてるんだよ。去年閉じられた傷口が、花になって咲いたのさ」

 ミアが目を細める。

 「きれい……まるで森の心そのものみたい」


 翌朝、風見人の使者が村へ来た。

 「ご報告です。西山の風祈り跡地に、封印石が新たに光を帯びました。森の境が安定しました」

 「完全な癒し、というわけか」

 「それに伴い、この村は風の巡りの基点に指定されます。これから各地への薬草の供給もお願いしたい」

 「つまり……村がひとつの拠点になるんだね!」ミアが声を弾ませる。

 ベル婆さんは目を細めて笑った。

 「森裏の薬草店、少し忙しくなるよ。よそ者も増える。でも、それが森の願いだ」


 その日の午後。

 ライルは磨き終えた看板を軒にかけ直した。

 風が一筋吹き抜け、文字の表面を優しく撫でる。

 「やっと……この店が“ここにある”って言える気がする」

 「うん。森が名前を覚えてくれたんだね」

 ミアが頷き、店先のティル畑を見やる。

 柔らかな風に葉が揺れ、その香りが村中に広がっていく。


 夕暮れ、旅商人が出立する支度を整えていた。

 「森を越える風が安定した。今なら行ける」

 「地図は?」

「風が導いてくれるさ」

 商人は笑顔で出発した。陽の光を受けたその背に、森全体の明るさが重なって見えた。


 夜、看板がまた軽く鳴った。

 だが今度は穏やかで、まるで風と板が挨拶を交わしているような音だった。

 ミアが湯飲みを手に、静かに言った。

 「ライル、この音、好き。森の声みたい」

 「そうだな。これがきっと、平穏の音だ」

 湯気の上にハーブの香りが漂い、屋根の上を風が通り過ぎていく。

 「ねえ、来年も風は同じ匂いかな」

 「同じ朝はない。けど、きっと同じ優しさはある」

 ミアの笑顔が灯の揺らぎに包まれる。

 外では、薬草店の看板がまた一度、軽く鳴った。

 カタン――と響く音が、静かな夜に心地よく残った。


 それは、村が確かに動き出した小さな合図だった。

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2025年12月14日 17:00 毎日 17:00

戦えなくなった元勇者、森の獣人村で薬草と料理に救われる ~最強の力を封印して、スローライフ満喫中。今さら「戻ってこい」と言われても、もう畑が俺の冒険だ~ @tamacco

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