第28話 村の新しい季節

 夜の雨は、翌朝には嘘のように止んでいた。

 森の葉がしっとりと濡れ、空気に春と夏のあいだの匂いが混ざっている。

 寝ぼけたミアが窓を開けて、深く息を吸い込んだ。

 「んー……いい匂い。森が洗われたみたい」

 「確かに。風が軽くなった。一晩で季節が一段進んだようだ」

 「夏の足音が聞こえるね」

 彼女の尻尾がうれしそうに揺れる。

 ベル婆さんが台所で鍋をかき混ぜながら声をかけた。

 「夏の手前は体を冷やすって言うけど、油断するんじゃないよ。こういう日は気がゆるむんだ」

 「わかってますよ」

 「じゃあ、村の集会のついでに神棚の香草も替えてきておくれ。今朝のレモナとティルを混ぜてな」

 「はい、先生」


 村の通りに出ると、雨あがりの匂いに混じって人々のざわめきがあった。

 商人の屋台が並び、久々に旅人たちの姿もある。

 「祭りの準備かな?」

 「そうね。毎年この時期、周囲の集落が行き来するんだ。冬を越した感謝と、夏の安全祈願」

 「じゃあ、にぎやかになるね!」

 ミアがスキップしながら進む。水たまりに映る雲が揺れて、風鈴の音が響いた。

 森の村とは思えないほど活気に溢れている。


 広場ではフルトと他の獣人たちが台を組んでいた。

 「おお、薬師! 来てくれたな!」

 「今日は祭りの準備ですか?」

 「そうだ! “風の輪祭”だよ。あんた知らんのか?」

 「名前だけは。風を祀るまじないのことですね」

 「そうさ。輪をくぐって風に願いを託すんだ。病のない一年を祈る大事な行事だ」

 ミアが目を丸くして聞く。

 「お祭り! 参加していい!?」

 「もちろんだとも!」

 フルトが豪快に笑い、花飾りを渡した。

 「これを頭につけな。風の加護が宿る」

 ミアの茶の髪に赤い花が映え、陽光を受けて輝いた。


 昼過ぎには村中が祭りの音に染まった。

 笛が鳴り、太鼓が鳴り、踊りの輪がひろがる。

 旅の商人が珍しい香辛料を売り、子どもたちが甘い果実を追いかけて走り回る。

 俺は薬草棚から持ってきた香油を香炉に垂らし、ベル婆さんの代わりに祈りの香りを焚いた。

 風が通り抜けるたび、甘く爽やかな匂いが村全体に広がる。


 しばらくして、サヨと風見人の一行が姿を見せた。

 「賑やかだな。これほど人と風が混ざり合う村も久しい」

 「封印の裂け目は完全に沈静化しましたか?」

 「森の力が均一に戻った。エルネも回復して、山の観測を再開している」

 サヨが微笑む。

 「君のおかげで風が正しい道を見つけた。この村は、季節の風を取り戻したんだ」

 「俺も森に癒された一人ですからね」

 「……それでも、いつか風はまた荒ぶる。覚えておくといい」

 真剣な眼差しの中に、わずかな笑み。

 「だが今は、風を楽しめ。戦うより、それが一番難しい」

 そう言って彼は祭りの輪の中へ入っていった。


 夕方、広場の中心で「風の輪くぐり」が始まる。

 柳の枝で編んだ大きな輪を、参加者が順にくぐる。

 子どもたちが歓声を上げ、ミアが笑いながら両手を広げた。

 「ライルも来て!」

 「俺が? 歳がいってるぞ」

 「風の加護は年齢関係ないの!」

 手を引かれ、仕方なく輪の前に立つ。

 いざくぐると、柔らかい風が肩を撫で、春と夏の香りが混ざる。

 まるで森が「おかえり」と囁いたようだった。

 ミアが満足そうに頷く。

 「ほらね! 風が祝ってくれたよ」

 「そうかもしれないな」


 日が落ちるころ、丘の向こうで橙の光が広がった。

 空には新芽のような薄緑の月。

 焚き火が灯され、村人たちがまた輪になって歌い始める。

 ミアの横顔を見ながら、俺は静かに息を吐いた。

 「ここに来て一年が過ぎたんだな」

 「もうそんなになるんだ?」

 「森の時間は早い。気づけば季節が巡っている」

 「でも、ライルが来てから、森の風が優しくなったよ」

 「それはお前たちが笑ってるからだ」

 「ううん。きっとあんたが笑えるようになったからだよ」

 その言葉に返す言葉が見つからなかった。

 夕風が火の粉を巻き上げ、二人の間に光の帯が広がる。

 風の唄が夜空へ昇るように流れた。


 祭りが終わり、夜が深まる。

 ミアが肩にもたれながらつぶやいた。

 「ねえライル。森ってさ、生き物でもあるけど、たぶんひとりの世界でもあるんだよ」

 「どういう意味だ?」

 「森は聞いてくれて、包んでくれて、それでも誰かが話しかけてあげなきゃ静かに孤独になる。だから村は必要なんだと思う」

 「だからお前はいつも森に話しかけてるのか」

 「うん。森が眠ってても、寂しくないように」

 彼女の言葉は焚き火の音に溶けていく。

 祈りのようで、歌のように。


 その夜、店に戻ると、窓際の瓶の中で乾燥した春告げ草が淡く光っていた。

 ベル婆さんがそれを見ながら言う。

 「いい祭りだったねぇ。森も笑ってたよ」

 「確かに」

 「さて……次の風はどんな歌を運んでくるかねぇ」

 彼女の目が優しく細まる。

 季節はまた次へ巡っていく。


 夜風が店の奥まで通り抜け、花びらを一枚差し入れた。

 春と夏の境目の風だった。

 その香りに包まれながら、俺は目を閉じる。

 風も森も人も、それぞれが新しい季節に息をしていた。

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