第27話 陽の射す丘の上で

 森の風が落ち着いてから数日が経った。

 春の陽光が強くなり、村の屋根にはつややかな緑の影が伸びていた。

 人の顔にも笑みが戻り、広場には干し草の匂いと子どもたちの笑い声が混じっている。

 ミアが薬草店の戸を開けて言った。

 「ねえライル、今日は仕事なし! みんなで丘に行く日だよ!」

 「丘?」

 「フルトのおじさんがね、花畑を耕したんだって! 春のお祝いをするんだよ」

 ベル婆さんが笑いながら背後から現れる。

 「昔の収穫祈願のまじないさ。森が静まったあとに太陽の下で感謝をする。行っておいで」

 「……じゃあ、久しぶりにのんびりしてみようか」


 村から東へ歩くと、見晴らしのいい丘があった。

 そこは以前、風祈りの祭壇があった山とは反対側。

 開けた空と遠い森が見渡せる場所だ。

 すでに村人たちが集まっており、布を広げて昼食の準備をしている。

 「おお、薬師さーん! こっちこっち!」

 フルトの明るい声が響く。

 大きな籠には焼きパン、林檎、香草入りのスープ。

 ミアが目を輝かせて机を覗き込む。

 「うわぁ、いい匂い……!」

 フルトが笑って木の椅子を差し出す。

 「森を救ってくれたお礼さ。今日は肩の力抜いてくれ」

 「助け合いですよ。皆が森を守ったんです」

 「はは、それでも今日は飲もうじゃねぇか!」


 焚き火のまわりで、獣人も人も子どもも大人も肩を組み合う。

 風に乗ってハールの香りが漂い、空気がふんわり温かくなる。

 ミアが歌い始め、それに合わせて太鼓が鳴った。

 リズムが軽やかで、春の鳥の声とよく合っている。

 俺は少し離れた場所で空を見上げた。

 山の向こうに薄く白い雲が漂っている。

 あの裂け目のあった空だ。だが今は不思議なほど静かだ。

 「やっと安心できそうだな」

 背後から声がして振り向くと、サヨが立っていた。

 風見人の装束のまま、珍しく兜を外している。

 「もう見回りは終わったのか」

「ひとまず落ち着いた。森も封印も安定している。ただ、風はまだ一方向を指している」

 「どこへ?」

 「南だ。暖かい方角へ。多分、森が春を運び出そうとしているのだろう」

 サヨが微笑む。

 「お前はこの村の一部になりつつあるな」

 「どうだろう。まだ外から来た人間のつもりだ」

 「森はそんな区別をしない。風を聞き、草の声を聞く者は皆、同じ土地の民だ」

 そう言って軽く肩を叩くと、彼は丘を降りていった。


 午後、宴が一段落すると、丘の上にはしばらく静かな時間が流れた。

 子どもたちが花冠を作り、大人たちが昼寝をしている。

 ミアが手に小さな風車を持ってこちらへ走ってきた。

 「ライル! これ見て!」

 「どうした?」

 「おばあちゃんが教えてくれたんだー。春風を捕まえるおまじない!」

 木の棒に紙切れを巻いだだけの小さな風車。

 「風を集めて森に返すの。願いをこめるんだって」

 「いい風習だな」

 ミアが素早く地面に風車を立て、目を閉じた。

 「……“この村がずっと笑っていられますように”」

 風がふっと吹き、風車が回る。

 その音は、どこか懐かしい笛の音に似ていた。

 ミアが顔を上げて笑う。

 「ほら、風が答えてくれた!」


 俺も同じように、心の中で願いを託す。

 ――森がこのまま穏やかでありますように。

 ――そして、この日々がすこしでも長く続くように。

 眼下の村から煙が立ちのぼり、家々の屋根が春光に光っていた。

 その景色に心が満たされる。


 ベル婆さんも丘を登ってきた。

 「ま、なんとまぁ、いい匂いだこと。草も花も笑ってるねぇ」

 「婆さんも来てくれたんですか」

 「こんな陽気な日に家にじっとしていられるかい。あたしだって山を登れなくなる前に、もう一度この景色を見ておきたいのさ」

 夕日を背に、婆さんは腰を下ろした。

 「風の子たちの唄が聞こえるよ。……この村はきっと大丈夫さ」


 丘の上に吹く風が柔らかく包む。

 光が草を照らし、香りが混じる。

 ミアが腕を伸ばし、空を撫でた。

 「ねえライル。森が好き?」

 「昔は怖かった。でも今は違う。森は、生きるための音をくれる」

 「じゃあ、あたしと同じだ。森に生かされてる」

 沈みゆく陽の光の中で、二人でしばらく何も言わずに立っていた。

 鳥たちがねぐらへ帰り、村の方から笑い声が届く。

 世界がひとつの呼吸をしているようだった。


 やがてベル婆さんが立ち上がる。

 「さあ、そろそろ戻るかい。夜風が冷たくなる」

 「はい。風車も、またひとつ願いを叶えてくれたみたいです」

 「あんたたちの願いなら、森の神様も張り切って動くだろうさ」

 丘を降りる途中、振り返ると、空に薄く虹の切れ端が見えた。

 それはまるで森が笑っているように見えた。


 村に戻るころには、灯がともり始めていた。

 ベル婆さんが店の戸口で一息つく。

 「ライル、ミア。明日は雨になる。森が春をひとつ流すんだ」

 「雨も儀式のひとつなんですね」

 「そうさ。風の洗礼さ。次の季節へ渡す手紙のようなものだよ」


 夜、窓辺に座って外を見る。

 丘の上に見た光景が、まだまぶたの裏に残っていた。

 森は眠っている。だがその眠りは優しい。

 剣も薬草も、今はただ静かに息づいている。


 灯を落とす前、ふと心の中に言葉が浮かんだ。

 ——守るというのは、何かを閉じることじゃない。

 ——ただ同じ風を一緒に感じること。


 外から軽い雨の匂いがした。

 春を終わらせるようでいて、新しい始まりの合図だ。

 今日見た丘の景色を思い浮かべながら、俺は目を閉じた。

 風が、頬を撫でるように優しく通り抜けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る