第26話
第26話 守るための小さな戦い
春の嵐が過ぎた翌日、森の緑が一層輝いていた。
風は柔らかく、空気には新芽の匂いが混じっている。
だが、その穏やかさとは裏腹に、村は落ち着かない空気に包まれていた。
封印が再び閉じたとはいえ、森の奥に走った不気味な波紋は、誰の目にも残像のように焼きついていた。
「ねえライル。森が少しざわざわしてる。風も。なんとなく不安そう」
ミアが店の裏庭で薬草を束ねながら言う。
「感じる。植物たちの動きが早すぎる。まるで何かを避けるように伸びている」
「避ける?」
「森の呼吸が揺れてる証拠だ。封印の余波かもしれん」
その時、村の外れから怒鳴り声が響いた。
「――おい! 来てくれ!」
駆けつけると、畑の端で二人の若者が倒れていた。
足に赤黒い痣のようなものが広がっている。
そのそばで、獣人の農夫が荒い息を吐きながら叫んだ。
「突然、蔓が……土の中から伸びてきたんだ! 生き物みたいに!」
見ると、畑の隅に茶色い蔓の塊が蠢いていた。
枯草のようで、しかし自ら動き、地中の栄養を吸い上げている。
「……これは普通の植物じゃない」
膝をつき、土をすくう。
混じっていたのは緋光草の根片だった。
「やはり、以前の封印の影響がまだ残っていたか」
ミアが顔をしかめる。
「どうするの?」
「根が生きているうちは燃やせない。炎を上げれば毒が広がるだけだ」
倒れている若者の脈を確かめる。
「意識はある。森の瘴気を吸っただけだな。急ごう」
ベル婆さんの言葉を思い出す——“森の怒りは人の心に宿る”。
つまり、草を断つだけでは足りない。
俺は腰に差した剣の柄に手をかけた。
ミアが驚いたように目を見開く。
「剣を使うの?」
「斬るためじゃない、導くためだ」
剣を抜き、刃を土に突き立てる。
金属の音が響いた瞬間、風が集まる。
森の枝が揺れ、蔓の一部が震えた。
剣身の符が淡く光り、空気が震えるように脈打つ。
「森よ、息を整えろ」
低く呟きながら、剣を地面から引き抜き、蔓に触れさせる。
その瞬間、風の流れが変わった。
空気が渦を巻き、蔓が一斉に縮む。
「今だ、ミア!」
彼女は素早くハール草とティルの油を混ぜ、土に撒き散らした。
炎ではなく、香草の煙が立ち上る。
瞼を刺すような苦い香り。
蔓はその香りに耐えられず、しゅうっと音を立てて土中に消えた。
残ったのは焦げ茶色の灰だけだった。
「……終わった?」
「一時的にはな。ただ、この土地に“怒り”の記憶が残っている。しばらく注意が必要だ」
ミアはしゃがみこみ、指で土を撫でた。
「まだ暖かいね。まるで森が息をしてるみたい」
「息を吹き返したんだ。これで少し落ち着くだろう」
若者たちを村へ運び、治療を施す。ティル粉を溶かした液を膝に塗ると、赤黒い痣がじわじわと薄れていった。
休息が取れた夕方。
村の広場に人が集まり始めた。
「また森が暴れているのか」
「風が変だ。まるで何かが息をしてる」
不安げな声があちこちから聞こえる。
ベル婆さんは火を焚き、皆の前で香草をくべた。
「これは恐れるためじゃない。森と話すための煙さ」
香ばしい甘い匂いが漂う。
「今日、ライルが蔓を鎮めてくれた。森は生きている。だから時折、夢の中で怒る。でも怖がらなくていい。森もわたしたちと同じで、誰かに話したいだけなんだよ」
話を聞く村人の顔が、少しずつ穏やかになる。
ミアが俺の隣で小声で言った。
「おばあちゃん、ほんとに森の言葉がわかるみたい」
「長くここで生きてきた者だけが知る声なんだろう」
「ライルも、もう十分聞けてるよ。さっき、剣から風が笑ってるのを感じたもん」
笑うような風の声。
確かに、剣を振るった瞬間、音が変わった。
それは怒りでも悲しみでもなく、胸の奥を撫でるような安堵だった。
広場の火が小さくなるころ、サヨが歩み寄ってきた。
「さすがだ、ライル。森が完全に沈静化した」
「一時的に過ぎません。根の奥はまだ熱い」
「それでも、あの封印を維持したのはお前の力だ。風が味方をしている証拠だ」
「そうだろうか」
「我々にもわからない。だが、お前が剣を抜いても村が恐れなかった。それが全ての答えだ」
彼の言葉が胸に残った。
夜、店に戻ると、ミアが焚き火のそばでハーブティーを淹れていた。
「今日はちょっと、戦いみたいだったね」
「戦いだよ。でも、誰も傷つけない戦いだ」
「“守るための戦い”……?」
「そう。たぶん、それが俺に課せられた役目なんだ」
ミアが微笑んで湯飲みを差し出す。
香りが鼻をくすぐる。
「この匂い、どこか懐かしい」
「おばあちゃんの調合を真似してみたんだ。森に“ありがとう”って言うお茶だよ」
「なるほど、そりゃ甘いはずだ」
窓の外では、夜の森が静まり返っていた。
月明かりが葉を照らし、風がゆっくり通り抜ける。
その静かさは、まるで誰かが祈りを受け取って眠りに落ちたあとのようだった。
小さな灯の下で、剣の影が壁に伸びる。
俺はその影を見つめながら、心の中で呟いた。
――もう斬るためじゃない。
――護るための剣であり続けよう。
風が優しく店内に入り込み、ハーブティーの湯気を揺らした。
それはまるで森そのものが「よくやった」と囁くように感じられた。
静かな夜、守るための小さな戦いが、ひとつの終わりを迎えていた。
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