第25話 再び剣を手に取る理由
春の朝の風はやわらかい。
だが、森の奥で鳴り続ける笛の音だけが、どうしても耳に残っていた。
薬草店の窓を開けると、遠くに白い霞が立ちこめている。木々がざわめき、まるで何かが息づくようだった。
「ライル、また鳴ってるね。あの笛の音」
ミアが苦い顔で呟く。
「夜も昼も、途切れない。普通の風じゃないな」
「あれ、もしかして……森が呼んでるの?」
「あるいは、エルネが何かを伝えようとしているのかもしれない」
その時、ベル婆さんが慌てた様子で扉を開けた。
「村の東門にサヨさんが来てる! 至急集まってほしいって!」
「何かあったんですか?」
「風が荒れてる。森の境が……変わり始めたらしい」
急いで広場へ向かうと、サヨと数人の風見人たちが到着していた。
彼らの背中の外套が風になびき、遠くの空気が渦を巻いて揺らいでいる。
「報せが来た。西の遺跡で“風の裂け目”が広がっている。精霊の境がほつれ、風そのものが流れ出している」
「封印が完全に消えたということですか?」
「そうだ。そして、あの笛の音は裂け目の中心から響いている。エルネがそこにいるかもしれん」
ミアが息を呑む。
「行くんだね、ライル?」
「行かないわけにはいかない。このままでは村も森も持たない。ただし、危険すぎる。お前は残れ」
「行く!」
即座の返事。
抗議の余地もないほどまっすぐな目だった。
「ライルがいなかったら、わたしだって怖い。でも、森が痛いって言ってるのに、耳を閉じたくない」
道理では止められなかった。俺は小さく頷き、腰の袋を確かめた。
村の倉庫に眠っていた古い箱を開ける。
案内してくれたのはベル婆さんだった。
「これはね、あんたが来たとき、無理に隠してたものだよ」
中には、錆びた鞘に収まった一本の剣があった。
握り部分が黒く、鍔には古語の刻印がある。
「まだ捨てていなかったのか」
「森があんたに返したんだよ。戦うためじゃない、守るために使いな」
手に取ると、鉄の匂いと懐かしい重みが手の中に蘇った。
過去の景色が脳裏をよぎる。血と煙、かつて守れなかった命。
握る指が少し震える。
「ライル……」
ミアが小さく呼んだ。
「怖いの?」
「怖いさ。あの時の俺は、剣しか知らなかった。だが今回は違う」
剣を腰に差し、ベル婆さんに頭を下げる。
「森を守る。そのために行きます」
婆さんは頷き、静かに呪文のような言葉を口ずさんだ。
「風の子らよ、彼に指針を。森の命、彼に託す」
出発したのは夕刻前だった。
春の森を抜けて西の山道へ。
途中、花の香りと焦げた匂いが入り混じる場所があった。
大地に黒い跡、燃え尽きた草の果てに赤黒い光が脈打っている。
「ここが裂け目の始まりだ」
風見人たちが結界を張っていたが、風はそれを押しのけるように逆流していた。
「結界が保てない! 風が溢れてる!」
「下がれ!」
俺は前へ出て、剣を抜いた。
長く触れていなかった金属が、光を反射する。
剣身に宿った古い呪印が淡く白く輝き、風が方向を変えた。
「この剣……まだ生きてる!」
「おそらく森の精気が反応してる。ライル、裂け目を断て!」
サヨの叫びに、踏み出す。
風が渦になり、闇の中から青白い光が噴き上がる。
その中心に、人の影が立っていた。
「エルネ!」
声を上げても彼は動かない。
目を閉じ、祈るように立つ姿。だが、その身体を取り巻く風が異様だった。
「彼は生きてる!」ミアが叫ぶ。
「封印を食い止めようとして、逆に風に飲まれたんだ」
剣を構え、裂け目へ一歩踏み込む。
冷たい空気が肌を斬るように走り抜ける。
「ライル! 危ない!」
ミアの声を背に、剣に力を込めた。
音が消えた。世界が静止する。
白い風と黒い風が絡まり、剣先がその境界を裂いた。
凄まじい光が走り、風が爆ぜる。
次の瞬間、風は止み、耳が痛いほどの静寂が訪れる。
目を開けると、剣の先に淡い緑の光が宿っていた。
裂け目は閉じ、エルネが膝をついて倒れている。
駆け寄り、肩を支えた。
「……間に合った……のか」
「無茶をしすぎです」
「ありがとう……お前が、この剣を……持ってきたのか」
「森が呼びました」
エルネは微かに笑い、風に溶けるように眠り込んだ。
サヨが安堵の息を吐く。
「封印は再び保たれた。しかし……何か、違う」
彼の視線の先、空にかすかな波紋が広がっていた。
それは森の上を滑り、やがて遠い南の空に消えた。
日が沈むころ、村へ戻る途中。
ミアが黙ったまま歩いていた。
「どうした?」
「ライルが剣を持った姿、ちょっと、怖かった。でも……安心もした」
「怖いのは当然だ。剣は守るためでも、人を遠ざけるための道具だからな」
「でもライルは違うよ。剣じゃなくて、風と同じ匂いがした」
その言葉に歩みが止まる。
春の風が頬を撫でる。
「今の俺は、もうあの頃の戦士じゃない。森を切るんじゃなくて、森をつなぐために剣を握る。それが理由だ」
ミアが微笑んだ。
「なら、森もきっと嬉しがってるね」
村に着くと、ベル婆さんが待っていた。
戻った俺を見て何も言わず、静かに手を合わせる。
「風の子らが喜んでたよ。……おかえり」
俺は剣を鞘に戻し、深く息を吐いた。
「ただいま戻りました」
夜。
剣を壁に立てかけ、その隣に薬草を束ねた。
どちらも命を支える道具――それを見比べながら思う。
戦いも癒しも、きっと同じ場所から始まる。
守りたいものがある限り、風は吹き続ける。
外では春の虫が鳴き出していた。
ミアの声が戸口から聞こえる。
「ライル、明日の朝、少し森を歩こう。風が新しい匂いを見つけたって言ってる」
「分かった。剣じゃなく、薬籠を持ってな」
「ふふっ、もちろん!」
夜風が通り抜け、剣の柄が静かに光った。
その微かな輝きは、再び歩き出すための道標のようだった。
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