第24話 訪問客と失われた地図

 春の風が穏やかに吹いていた。

 森の木々は鮮やかな緑に変わり、花々が一斉に咲きほころんでいる。

 薬草店の軒先では、干していたティルモナの葉が陽光を浴びて金色に輝いていた。

 ミアが風鈴を吊るしながら笑う。

 「春って忙しいけど、空気がやさしいね」

 「一年で一番香りの種類が多いからな。風が香草を運んでいる」

 「わかる! 今朝なんて、森の外から甘い匂いがしたよ」

 「外の香り……?」

 その一言に、心が小さく波立った。


 昼下がり。

 扉の鈴が鳴った。

 振り返ると、一人の旅人が立っていた。

 長いコートを羽織り、つばの広い帽子を深くかぶっている。

 獣人でも人間でもない、不思議な雰囲気をまとった人物だった。

 「ここが、ルナフィア村の薬草店か」

 低く落ち着いた声。その口調には洗練された響きがある。

 ミアが挨拶をする。

 「はい! どうぞ、旅の方。お茶をどうぞ」

 「ありがとう。少し、話を聞きたくてな」

 帽子を取ると、短い灰色の髪と、薄く光る瞳がのぞいた。

 「……風見人、ですか?」

 俺の言葉に男は軽く頷いた。

 「エルネの名を知っているか」

 「会ったことがあります。封印の風を修復したときに」

 「なら話が早い。彼が失踪した」


 店の空気が一変した。

 ミアが小声で呟く。

 「失踪……?」

 「三日前のことだ。山上の観測所から報せが途絶えた。彼は“風の流れが再び乱れた”という記録を残して姿を消している」

 「前に封印した祠と関係が?」

 男——風見人の筆頭、サヨという名らしい——は、懐から古びた紙を取り出した。

 「これが彼が残した地図だ。風の流れを記録したものだが、一箇所、墨で塗りつぶされている」

 紙を広げると、細かな線の中に、確かに黒い染みのような部分があった。

 「塗りつぶしたというより、何かが“消えた”ようですね」

 「我々もそう見ている。あそこには旧い遺跡があり、かつて風祈りの術が行われていた。もし何者かが封印を解けば、再び森全体に影響が及ぶ」


 ベル婆さんが店の奥から出てきた。

 「風祈りの遺跡……そんなもの、もう忘れ去られたと思ってたよ」

 「村の近くですか?」

 「東の外れ。山を一つ越えた先さ。今じゃ獣道になっとる」

 サヨが深くうなずく。

 「我々も手を回すが、地に馴染んだ足が必要だ。頼めるか?」

 「俺とミアで向かいます」

 「うん!」とミアが即答した。


 春とはいえ、山の夜風はまだ冷たい。

 出発したのは翌朝だった。

 森を抜け、緩やかな丘を越えていく。

 草が足元でざわめき、昼には鳥の羽音だけが響いていた。

 やがて道が細くなり、地図に記された印が見えてきた。

 崩れた石の柱、もはや建物とは呼べないほど風化した壁。

 「ここが……」

 「風祈りの祭壇の跡だと思う」

 ミアがしゃがみ、指先で石の模様をなぞった。

 「これって、おばあちゃんの使ってた薬棚の刻印と似てる」

 よく見ると、文様の一部が草の葉を象っている。

 「薬と風祈りが同じ起源……?」

 「ベルおばあちゃんの祖先は、たぶん祈り医だったのかもね」

 「ということは、ここに関係する何かを解いたのが――」

 「エルネさん……?」


 遺跡の中央に進むと、黒く焼け焦げた石があった。

 手をかざすと、ほんのり温かい。

 「まだ最近だ。誰かがここで儀式を行った形跡がある」

 ミアが草むらの中から何かを拾い上げる。

 小さな金属の円盤。

 風見人の印章だった。

 「やっぱり……エルネさんのものだ」

 円盤の裏には小さな刻印が彫られていた。

 「“西へ導け”?」

 「まだこの遺跡のどこかに道があるということか」

 慎重に捜索すると、崩れた壁の影に細い階段が隠れていた。

 「ライル……行こう」


 階段は地中へと続いていた。

 灯を掲げて降りると、長い通路の先に小部屋があった。

 中央の台座に、風見の水晶が一つ置かれている。

 だが、中に光はなく割れている。

 「壊されてる……どうして?」

 台座の裏には、乾いた紙切れが貼られていた。

 ――風は人を癒やす。しかし、人も風を縛る。

 ――この地を離れる。森に告げよ、“最後の祈り”が迫ると。

 「これが、エルネさんの言葉……?」

 「“最後の祈り”って、どういう意味?」ミアが低く問う。

 「分からない。ただ、風祈りが“終わり”を告げるとは思えない。この森の何かが大きく変わろうとしている」

 外の風が地下まで吹き込み、紙片を揺らした。

 それはまるで森自身が、何かを伝えようとしているかのようだった。


 村へ戻る道の途中、ミアはずっと黙っていた。

 「どうした?」

 「もし“終わりの祈り”って、森が眠ることだったら……?」

 俺は答えを出せず、ただ肩の雪解けの風を感じた。

 「もしそうでも、俺たちは歩き続けるだけだ。森が眠るなら、また新しい春を呼べばいい」

 ミアは少し考え、ようやく笑った。

 「うん。風だもんね、止まってもまた吹くんだ」


 夕暮れの村に戻ると、サヨが待っていた。

 「手がかりは?」

 「エルネは生きているかもしれません。西へ向かった形跡がある」

 サヨは小さく頷き、地図を巻いた。

 「ありがとう。風見人も動く。……だが気をつけろ。森が眠る前に、何かが必ず目を覚ます」

 その言葉が奇妙に胸に残った。


 夜、薬草店の灯を落とすと、森の方角から微かな音がした。

 笛のような、祈りのような風の歌。

 ミアが耳を澄ます。

 「ライル……ねえ、あれって……」

 「分かってる。風祈りの旋律だ」

 外の風がふっと止み、次の瞬間、森の奥で一筋の光が瞬いた。

 春の夜にしてはあまりに鋭い、青白い輝きだった。


 胸騒ぎがした。

 森は、また息を深く吸い込もうとしている。

 それが吉兆なのか、災いなのか――まだ誰にもわからなかった。

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