第23話 春を告げる香りの葉
雪がゆっくりと溶け始めていた。
屋根のつららが雫を落とし、村の道は泥混じりの水音を立てている。
凍えた木々が少しずつ緑を取り戻し、冷たい空気の中にかすかな土の匂いが混じった。
春の兆しだ。
薬草店の裏庭にも、冬を越した小さな芽が顔を出していた。
「ライル、見て! ティルの新芽、もう出てるよ!」
ミアがしゃがみ込み、地面近くを丁寧に探っている。
その指先に触れて、柔らかな若葉がゆらりと揺れた。
「冬を越えた根は強い。寒さが薬効を高めるんだ」
「ねえライル、これ“春告げ草”って呼ばれてるんでしょ?」
「正式名はティルモナ。春をいちばん早く感じて香りを出すから、そう呼ばれてる」
ミアが鼻を寄せ、ふんわりと笑う。
「甘い香り……。なんだか、おばあちゃんの台所みたい」
「乾かすと香茶にもなる。季節の変わり目にはぴったりだ」
ベル婆さんが店の中から声をかけてきた。
「二人とも、川向こうの畑にも寄っておくれ。あそこの土が冷えすぎると芽が腐っちまう」
「了解」
笠を被り、ミアと共に坂道を下る。
川の音が雪解け水で勢いづき、流れの表面に日差しが反射して眩しかった。
「ねえライル。春って、静かに来るけど、ちゃんと香りで分かるね」
「そうだな。風が変わる。生き物の匂いが戻る」
「ふふ、まるで詩人みたい」
「お前が言い出したんだろ」
笑いながら土手を歩く。雪の名残りの下では、薄紫の小花が咲き始めている。
畑に着くと、フルトが土を掘り返していた。
「おお、来てくれたか。助かる!」
「まだ凍ってるな」
「そうなんだ。表面だけ溶けて下は固い。風の通しを良くしないと芋が駄目になる」
ミアが膝をついて土を握りしめた。
「ん、この土、冷たいけど気持ちいい。……あ、でも少し変な匂いがする」
「腐敗か?」
「いや、ちょっと甘い匂い。どこかで嗅いだことある」
その匂いに覚えがあった。
「緋光草だ」
ミアが顔を上げる。
「どうして畑に?」
「誰かが持ち込んだか、風に流れたか……。春風が森の奥を通る頃、封じられた草の種が飛ぶことがある」
「また瘴気につながる?」
「今のところは違う。ただ、放っておくと毒性が出るかもしれん」
俺は手にした木べらで小さな穴を掘り、赤黒い芽を慎重に取り除いた。
摘んだ芽を布に包むと、フルトが不安げに聞く。
「それ、危ねぇものか?」
「しばらくは封じ草として使える。春の初めに燃やせば、病を寄せつけない」
「なら安心だ。お前さんがいて助かる」
「この土地の風が守っているだけだ」
そう言うと、フルトは笑いながら手を振った。
帰り道、川辺に春告げ草が群生していた。
「こんなにたくさん……! ねえライル、摘んでいこうよ」
「乾燥させて茶葉にするか、油で煮出して香油にするかだな」
「じゃあ、今日はお茶にしよう! 春を飲むの!」
その言葉に苦笑しつつ、籠にいっぱいの若葉を詰めた。
日差しはまだ弱いが、風が少しだけ柔らかくなっている。
雪の下で眠っていた森が、呼吸を始めたようだった。
薬草店に戻ると、ベル婆さんが炉の火を整えていた。
「おやまぁ、その籠いっぱい! もう春が来たみたいじゃないか」
「葉を乾かして、お茶にします」
「ちょうどいい。今夜は久々に“香り茶会”でもやろうかね」
「茶会?」ミアが目を輝かせる。
「春の初めはね、みんなで香りを分け合うんだ。願掛けみたいなものさ」
夜が更け、村の中央に小さな焚き火が組まれた。
雪が融けた土の上に板を並べ、湯を沸かす鉄鍋を置く。
フルトやシェナ、子どもたちも集まってきた。
ミアが自慢げに乾いた葉を取り出し、鍋にそっと入れる。
湯気とともに、淡い香りが夜の空気を包んだ。
「わあ……やっぱりティルモナは優しい匂いだね」
「一年で最初の風の香りだ」とベル婆さんが言う。
みんなが湯飲みを手に取り、それぞれの願いを囁くように香茶を口に運んだ。
「春が来るよ、また新しい風と一緒に」ミアが微笑む。
「そうだな。森の夢が醒める季節だ」
ベル婆さんが火を見つめながら呟く。
「でもね、森は少しずつ違う夢を見る。春のたびに新しい息を吹き込んでくれる。それが生きるってことさ」
「夢の継ぎ木みたいですね」
「いい言葉だね、ライル」
火の光が皆の頬に映り、雪解けの匂いと混じり合う。
ミアがふと空を見上げた。
「ねえ、ほら。星が春色してる」
確かに、冬よりも淡く、柔らかい光を放っていた。
その光を見ながら、俺は小さく息をついた。
森も村も、少しずつ目を覚ます。
茶器の底に残った葉を指先でつまみ取り、土の上に置く。
風が吹き、葉が小さく踊るように転がった。
「これは森へのおすそ分けだ」とベル婆さんが言う。
「春の香りを返すんだよ」
夜風の中で、春告げ草の匂いが遠くまで流れていく。
その香りに包まれながら、ミアが囁いた。
「ねえライル。また明日、森に行こう? 次の春風を見つけにさ」
「行こう。今度はお前が風の案内役だ」
「うん!」
森は静かに揺れ、木々の枝がささやく。
冬を越えた命の音が、確かにそこにあった。
やがて春の匂いをまとった風が吹き抜け、火をやさしく撫でてゆく。
香りの葉は、夜空に舞い上がりながら光を反射し、星とひとつになって消えた。
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