第20話 それぞれの祈り

 森を渡る風が秋のように冷たく感じられた。

 空気が乾き始め、森の色も徐々に深い緑から金へと変わってゆく。

 収穫が終わり、村では冬支度がはじまっていた。

 朝の屋根には薄い霜の跡があり、吐く息さえ白い。

 そんな中でもミアは変わらない笑顔で薬草棚の整理をしていた。


 「ライル、これ見て! 春に植えたティルの根、倍になってる!」

 「上出来だ。これで冬の薬茶は足りそうだな」

 「残った分はおばあちゃんの腰薬用にしておこうかな」

 「喜ぶさ」

 棚のほこりを払いながら答えると、ミアの尻尾が機嫌よく揺れた。

 そんな穏やかな時間のなか、外から声が聞こえた。


 「ライルー! 手伝ってくれー!」

 声の主は村の大工、フルトだ。

 大きな角を持つ鹿獣人で、背中には丸太を担いでいる。

 「薬師さんの力が要るんだ。南の畑の方で、木が変な色になってる」

 「木?」

 「根が膨らんでるんだ。まるで火を通したみたいな焦げ色でさ」

 ミアと目を合わせる。「また森か」と彼女が呟いた。


 南の畑は、かつて森を開墾した場所だった。

 そこに立つ一本の大樹の根が、確かに黒く焼けたように変色していた。

 触ると冷たく、しっとりと湿っている。

 「腐ってるわけじゃない。魔の気配……でもない」

 「この根が枯れると、畑全部に影響しちまう。どうにかできないか?」

 「薬草の力で土を整えることなら」

 俺はうなずき、袋から粉末を取り出した。

 ティルとミント、それに微量の緋光草。

 溶かして土に撒くと、香りがする。

 「風を呼ぶ草だ。森の息と混ざれば根の毒を抜けるはず」

 フルトが安心したように息を吐く。

 「頼んだよ。お前さんの草には、いつも助けられてる」

 「助かるのは相手と森の力だ」笑いながら返すと、隣でミアがそっと囁いた。

 「本当は、ライルの“気持ち”の力だよ」


 その日の午後、ベル婆さんが神棚の前に灯をともし、薬草を捧げていた。

 「また森の変化かい」

 「南の木の根です。腐ってはいませんが、気味が悪くて」

 「森も生き物だ。長く息をしていれば、たまには夢を見るんだよ」

 「夢?」

 「そうさ。森の夢の中では、人も獣も草も同じ。ときどき夢が溢れて現実を染めることがある。昔から“森の寝言”って呼ばれていたよ」

 ミアが目を丸くする。

 「寝言で木が焦げるの?」

 「それだけ長く眠っていたってことさ。風見たちの間では、森が『祈りの季節』に入った合図だって言われてる」


 夜になって、村では焚き火の支度が整えられた。

 この地域では年に一度、冬の始まりに“祈り火”を焚く。

 森と風、人の平穏を願う伝統行事だ。

 ベル婆さんが焚き木を組み、オオカミの族長が火種を落とす。

 炎が立ち上がると、人々の顔が橙に染まった。


 「ライル、これ、あたしたちの番だよ」

 ミアが手に小さな瓶を持っている。緋光草の粉末だった。

 「ほんの少しだけ入れると、火が光るの」

 「……燃焼性が高いが大丈夫か?」

 「祈り火は“恐れを燃やす”から平気さ!」

 ミアが軽やかに瓶を傾けると、焚き火がふっと赤く光り、炎の輪郭が緋色に染まった。

 その色はあの日の草と同じ、心を刺激するような深い赤だった。


 村人たちは順々に火の前で祈る。

 誰もが胸に小さな言葉を抱えている。

 豊作を願う者、健康を願う者、家族の安寧を祈る者。

 ミアが隣で目を閉じた。

 「おばあちゃんがいつも言うんだ。祈りって、森に言葉を預けることなんだよ」

 「言葉を預ける?」

 「そう。森が返すのは“答え”じゃなくて、“風”。だから期待しすぎちゃだめ」

 「……それでいい。返事じゃなくても、届くことに意味がある」

 俺は焚き火の前に立ち、手を組んだ。

 何を祈るべきか、少し迷った。

 かつて祈りを忘れた自分が、今こうして森の前に立っている。

 戦いで傷つけ、守りきれず、誰かを失った。

 それでも今、ここで新しい笑顔に囲まれている。

 心の奥から自然に言葉が浮かんだ。

 ――この平穏が、どうか続くように。


 火の粉が風に乗り、夜空へ舞い上がる。

 焚き火の周りでは歌が始まり、子どもたちが手を叩きながら踊っていた。

 ベル婆さんが隣で目を細める。

 「森の音が戻ってきたね」

 「森の寝言が、夢の続きを見ているのかも」

 「だとしたら、いい夢だよ」

 婆さんの笑顔を見ながら頷く。


 夜は更け、焚き火が静かに燃え残る。

 村人たちが家へ戻っていき、最後に残ったのは俺とミアだった。

 「ライルはなにを祈ったの?」

 「教えたら叶わなくなる」

 「ずるい。……でも、きっとやさしい願いなんだろうな」

 「お前は?」

 「秘密。でもきっと、似たようなこと」

 ミアが笑った。

 炎の明かりが揺れて、彼女の横顔を包む。

 胸の奥にあたたかい何かが灯った気がした。


 火が小さくなり、夜風が通り抜ける。

 森の方から、木々のざわめきと笛のような音が聞こえた。

 それは誰かの祈りが風に乗り、森へ還っていく音だった。


 この夜、村の空気は長い夢のように静かだった。

 人も草も風も、それぞれの思いを胸に抱え、同じ空を見上げていた。

 森は微かに光を返し、まるで祈りに頷いているかのようだった。

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