第19話 願い草のひみつ

 深い霧が村を包み込んでいた。

 朝の光さえ白く濁り、屋根も道も溶けるように霞んでいる。

 ミアが薬草棚の瓶を磨きながら不満げに言った。

 「これじゃ森に行けないね。空も地面もぜんぶ同じ色」

 「仕方ない。こんな日に無理して入れば方向感覚を失う」

 「でも、霧の日だけ咲く草があるって、おばあちゃん言ってた」

 ベル婆さんが釜の火をいじりながら笑う。

 「願い草のことかい」

 ミアが嬉しそうに振り返る。

 「そう、それ! 願いをひとつだけかなえる草!」

 「実際にはただの夢見草だよ。睡眠を深めて心を癒やす。だが、昔の人は夢の中で見たものを“願いが叶った兆し”と信じたのさ」

 「ロマンがあるな」

 「ま、採るのが大変でね。霧の中にしか出ないから、見つけた者は幸運呼びの印をもらえたそうだ」

 ミアが目をきらきらさせた。

 「ライル、行こうよ! 願い草、さがそ!」

 「お前は動きたいだけだろう」

 「ちがうよ、ちゃんと風を感じて探すの!」

 結局、彼女の熱意に押されて、昼すぎに出ることになった。


 森の入り口は音が薄い。

 霧が深く漂い、空気が冷える。

 数歩進むだけで、木の影が霧に溶けていく。

 「見通し最悪だな」

 「ふふ、こういう時は風筋を探すの。匂いと音が頼り」

 ミアがゆっくり歩きながら手を広げる。

 「風が“こっちだよ”って触れてくるんだよ」

 「なるほど。俺にはその声までは聞こえんな」

「じゃあ、あたしが耳になる!」

 ミアの尻尾が霧の中で揺れた。頼もしくもあり、少し不安でもある。


 しばらく進むと、霧の向こうからほのかに青い光が見えた。

 「見てライル! あれ!」

 駆け寄ると、地面一面に淡い光を帯びた草の群れがあった。

 透明な茎の先に、小さな星の形をした花。

 その香りは懐かしく、胸の奥をやさしく撫でるようだった。

 「これが……願い草?」

 「そう! きっとそうだよ!」

 ミアが膝をつき、花を眺めた。

細い指先が花びらに触れると、光が少し強くなった。

 「やっぱりね。森があたしたちを呼んでたんだ」

 「噂どおりなら、葉を煮出すと心が穏やかになる。……ただし、一歩間違えば幻を見る」

 「使い方次第、だね」ミアが笑った。


 数本を丁寧に摘み取り、袋に入れようとしたその時だった。

 地面の奥から、低い唸りのような音が響いた。

 「……風?」

 「違う。これは……」

 音が強くなり、足元の草が波を打つように揺れる。

 霧が裂ける。

 そこに現れたのは――人影だった。


 白い衣をまとい、顔を覆うように布を巻いている。

 痩せた体、片手に杖。

 「それを……置け」

 老人の声だった。だが年齢より鋭い響きを持っていた。

 「あなたは……」

 「それは“願い草”ではない。森の記憶だ。持ち帰れば夢が壊れる」

 「森の記憶?」

 老人は静かに頷いた。杖の先で地面を軽く叩く。

 霧がゆらぎ、花々がいっせいに首を垂れた。

 「この草は、人の願いが濃くなりすぎて生まれた。欲に囚われて枯れた者の眠りだ。……見るがいい」

 そう言って、杖の先を花にかざす。

 淡い光が広がり、ひとりの女性の幻が現れた。

 ミアが息をのむ。

 それは誰かを待つように祈る影だった。

 「森の守人……昔そう呼ばれていた者だ。長く待ち続け、ついに願いの形に姿を変えた」

 老人がため息をつく。

 「人はすぐに“叶える”と言う。だが、森は願いを“残す”んだ。だからこそ、ここに在り続ける」


 ミアが小さな声で問う。

 「じゃあ、この草を持ち帰ったら……?」

 「叶えたように見せて、心を奪うだろう」

 老人の言葉が重く落ちる。

 「夢見たまま永遠に眠る。……かつて、俺も一度手にした。妻を戻すためにな」

 霧の中に深い沈黙が広がった。

 老人は目を閉じ、ゆっくりと微笑んだ。

 「だが森に教わった。願うことは悪ではない、ただ“生きながら願う”ことが、人の務めだと」


 その言葉が風に溶け、霧が少し薄れていく。

 ミアの手の中の花が静かにしぼんでいった。

 「もう……持って帰らない。ね、ライル」

 「ああ」

 俺は花をそっと地面に戻した。

 黄色い光が地を走り、やがて草たちは眠るように光を消した。

 霧が完全に晴れる頃、老人の姿もいなかった。


 村へ戻る道すがら、ミアがぽつりと言った。

 「森って、不思議だね。何かを叶えてくれるわけじゃないのに、心を軽くしてくれる」

 「願う心を残してくれるんだ。たぶん、それが生きる糧になる」

 「じゃあ、あたしの願いも残していく」

 「どんな願いだ?」

 「ライルとずっと森で笑っていられますように、って」

 思わず歩みを止めた。

 「……それは、すぐ叶いそうだな」

 ミアの尻尾が嬉しそうに動く。

 「じゃあ、このままずっと願い草のそばにいようね」


 村に帰り着くころ、霧はすっかり消えていた。

 太陽が顔を出し、乾いた風が吹き抜ける。

 ベル婆さんが外で布を干していて、俺たちを見つけると笑った。

 「願い草は見つかったかい?」

 「……見つけたけど、森に返しました」

 「そうかい。あれは、そうするのがいちばんいい」

 「おばあちゃん、会ったの。白い服の人に」

 ベル婆さんはしばらく黙り、やがて静かに言った。

「昔々、森の精霊と共に生きた人たちがいた。その末裔かもしれないね」


 夜、棚の上に置いた瓶の緋光草が、ほのかに赤く光った。

 その隣で、ミアが布団に潜りながら呟く。

 「ねえライル、もし夢を見たら伝えて。願い草の代わりに、あたしが叶えるから」

 「なら、お前が寝坊しない夢を見たら頼もう」

 「もうっ!」

 布団をかぶる音がして、笑いがこぼれた。


 窓の外には静かな月。

 森の葉がゆるやかに揺れ、霧の消えた夜風が通り抜ける。

 遠くで、かすかな笛の音が聞こえた。

 あの老人のものだろうか、それとも風自身の唄か。

 願いは叶わずとも、心を柔らかく撫でていく——

 そんな穏やかな夜が、更けていった。

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