第18話 森の奥の廃小屋へ
朝の空は灰色だった。
晴れてもいないが、雨が降る気配もない曖昧な天気。そんな日の森は音が遠くに感じられる。
鳥の鳴き声さえ、厚い空気の中で霞んでいた。
ベル婆さんが棚の瓶を揺らしながら言った。
「ライル、このところ森の奥に入る獣人が減ってる。おかげで薬草が不足だ。頼めるかい?」
「構いません。何を採ってきましょう」
「ティルの根と、できればフラナ草を少し。奥の湿原に群生してるはずだよ」
「了解しました。ミアは……」
「もちろん行くよ!」ミアが手を挙げる。
「まったく、断る気がないな」
「だって、森の奥なんて久しぶりだもの。香りが違うんだよ?」
ベル婆さんが笑う。
「気をつけておいで。森の深いところは、人より長生きした木の根が眠ってる。変わった風を感じたら戻ることだ」
「心得てます」
森の奥へ向かう道は、前より静かで、湿り気が多かった。
谷の風騒ぎが治まってからというもの、森の空気は一段重く感じる。
木々の間から差す光も弱く、いつもよりひんやりしていた。
ミアが肩の籠を抱え直しながら言う。
「ねえ、最近森の匂いが少し変わった気がする。甘くて、でも……ちょっと寂しい匂い」
「森が季節を変えようとしてるんだろう」
「ううん、そうじゃなくて。眠ってる誰かの夢みたいな匂い」
その言葉に首を傾げたが、すぐに呑み込んだ。ミアの感覚は時々、森と繋がる。
歩くうちに、道が消えた。
四方を覆う苔と根。獣の足跡も人の痕跡もない。
ここまで来るのは一年ぶりかもしれない。
あたりは湿原になっていて、地面は柔らかく靴が沈む。
風がほとんど吹かず、木の葉も動かない。
音が、ない。
「……妙だな」
「どうしたの?」
「静かすぎる。森の中はいつも何か鳴っているものだ」
ミアが耳を立てた。
その時、小さな水音がした。
「ほら、あそこ。泉?」
彼女が指差す方向に、淡く輝く水溜りがあった。
水面に空の明かりが反射し、小さな光がゆれている。
その隣に、木造の小屋が見えた。
「……人の住処か?」
「でも古いよ。屋根が崩れてる」
木壁は苔むし、窓は蔦に覆われている。
まるで森が包み込んで眠らせたような姿だった。
近づくと、扉が半分開いていて、中から乾いた風が漏れてきた。
「誰かがいた痕……?」
床に足跡があった。獣人ではない。人間の靴跡だ。
「最近のものだな」
部屋の中には棚があり、瓶や道具が散らばっていた。
その中に、見たことのない薬草の束が干してある。
葉の形が独特で、先端が赤黒く染まっている。
ミアが手を伸ばしかけた。
「それ……緋光草じゃないの?」
「似ているが違う。これは、根を食べると幻を見せる草だ」
「誰がこんなのを……?」
「……やはり、あの日の足跡の主かもしれない」
机の上にはノートが一冊あった。
湿気で端がふやけていたが、文字はまだ読める。
少し目を通すと、そこには奇妙な記述があった。
――風は病を食う。
――肉体の腐敗を風に流せば、魂は森に帰る。
「……研究者か、あるいは狂人か」
ページの端には、手書きの図形。封印に似た文様。
その中央に緋光草の絵。
「まさか、この小屋が……祠の封印を壊したやつの拠点?」
ミアの声が震えた。
「断定はできんが、状況はそう告げてるな」
棚の奥を探っていると、乾いた音がした。
何かが床に転がった。
拾い上げると、それは小さなガラス瓶だった。
中に黒い粉が詰まっており、微かに熱を帯びている。
「香料……いや、これは違うな」
瓶の底に刻印があった。古代の浄化印。
「その印……風見人のエルネさんのところで見たやつと似てる」
「俺もそう思う。となると、この者は風見人の関係者かもしれない」
「でもどうして森でこんな実験を?」
「生き返らせようとしているんじゃないか」
「え……?」
「森の風を操り、命を戻す。封印された魂を呼び戻す。それが目的なら筋が通る」
その言葉が落ちると、小屋全体が揺れた。
窓の外で風が鳴っている。
音は強く、低い。人の呻きにも似ていた。
「外に出るぞ!」
扉を開けようとした途端、強風が逆から吹き込んできた。
瓶が棚から落ち、床に転がる。
ミアが叫び声を上げた。
「扉が――!」
風圧で押し戻され、外に出られない。
仕方なく、俺は腰のナイフで窓を叩き割った。
割れた隙間から外の空気が流れ込み、渦を崩す。
同時に、外の風が一瞬止まった。
嵐の中の静寂。
「ミア、今だ!」
手を掴み、飛び出す。
湿原の地面が跳ねるように揺れ、後ろの小屋が軋みを上げて倒れた。
土と埃が舞い上がり、緋色の葉がいくつも空に散った。
しばらくして風が止み、森が正気を取り戻す。
ミアが息を切らしていた。
「なに……今の……」
「分からん。ただ一つ確かなのは、あそこに“何か”がいたということだ」
彼女の指先を見つめると、緋光草の小さな葉が一枚張り付いていた。
ほんのり光を放ちながら、やがてしゅんと消えた。
夕陽が木々の隙間から差し込んだとき、ようやく村が見えた。
家並みが橙に染まり、焚き火の煙が立っている。
ベル婆さんが外で待っていた。
「早かったね。どうだった?」
「……森の奥に、廃小屋がありました。おそらく、人が何かを試みていたようです」
「危険は?」
「もう形はない。ただ、何かが残っているような気がします」
婆さんは目を細めて頷いた。
「森は忘れない。封じられたものほど、夢の中で息をしてるものさ」
その瞳には、過ぎた年月を見透かすような深みがあった。
夜、ミアは窓際で月を見ていた。
「ライル、あの小屋のこと、誰が建てたんだろう」
「分からない。ただ、森を知りすぎた誰かだ」
「また行く?」
「必要ならな。けれど、今回は森が守ってくれたような気がする」
ミアは小さく笑い、目を閉じた。
「森は優しいね。怒っても、包んでくれる」
外では小さな風が吹き、木々が囁いていた。
それはまるで、森そのものが語りかけてくるようだった。
その夜、眠る前に、棚の瓶から微かに光が漏れた。
緋光草の残り香。
小屋で見たあの光と同じ色だった。
「……やはり、まだ終わっていないのか」
呟きながら、俺は窓の外を見つめた。
遠くの森の奥に、ほんの一瞬だけ、赤い灯がまた揺らめいた気がした。
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