第17話 谷風の精と呼ばれるもの
夜明け前の森は、青く沈んでいた。
草の露が足元に当たり、冷たい静けさが広がる。
その日、村の端から奇妙な報せが届いた。
「谷の方で風が止まらない。夜通し渦を巻いて、誰も近づけんらしい」
そんな知らせを持ってきたのは、丘の羊飼いの男だった。
「風の渦?」
「そうだ。笛みたいな音を出して、木まで揺らす。見たものはみんな“精霊の怒りだ”って言ってる」
ベル婆さんは静かに頷き、俺に視線を向けた。
「ライル、慎重に行っておくれ。森の風の流れは人の感情と同じ。乱れてる時は、誰かが泣いてる時だよ」
「風の涙か……分かった。確かめてくる」
ミアがすぐに支度を始めてしまった。
「待て。谷は危険だ。お前は残れ」
「またそれ! でも行くよ。風の声、あたしにも少し聞こえるから」
その頑固さにため息が出るが、結局いつものように折れるしかなかった。
「なら俺から離れるな。いいな?」
「うん!」
村を抜け、川沿いの峠道を進む。
風は確かにおかしかった。
穏やかな朝なのに、一定の間隔で突風が吹き、樹の葉を巻き上げている。
鳥も鳴かず、獣の気配もない。
森そのものが息を止めているような、そんな空気だった。
谷に着くと、地形の向こうに白い煙のようなものが見えた。
「まるで霧の柱みたいだね」
「違う、風だ。渦が空気を巻いてる」
谷の底から、低くうなるような音が響く。
ゴウ……と地の底から鳴るようで、不思議と冷たさを含んでいた。
「精霊が怒ってる、って本当かな……」
ミアが呟く。
俺は膝をつき、地面の草を指でつまんだ。
葉の向きが一定ではない。風が決まった方向ではなく、うねるようにして吹いている。
「自然の流れじゃないな。瘴気ではないが、似たような歪みだ」
「人が関係してる?」
「恐らく」
息を潜めて谷のほとりを進む。
谷底に降りる途中、倒れた木々の間に古い碑石が見えた。
半ば苔に覆われ、読めるのはほんの一部。
“ここに風眠る”
その一文だけが残っていた。
「眠る……? 風が?」
「風の精を封じた碑なのかもしれない」
触れると、石がほんの少し震えた。風が指先に入り込むような感覚。
「何か、いるね」
ミアの耳がぴくりと動く。
次の瞬間、谷から渦が巻き上がった。
風が叫ぶように音を立てて吹き荒れる。
「下がれ!」
咄嗟にミアの腕を掴んで抱き寄せる。
土砂が舞い上がり、木の枝が空中を弓のようにしなる。
耳を塞ぐほどの轟音。
風が形を作っていた。
半透明の塊が、やがて人のような輪郭を帯びる。
目も口もないそれは、ただうつろな音を吐き出していた。
「谷風の精……?」ミアが小さく呟く。
手から伝わる震えが分かるくらい近かった。
「精霊にしては荒い。“封じの力”が消えかかっているんだ」
どうすれば鎮められるか――頭の中で記憶をたどる。
風を解くときは、同じ風をぶつけて均す。
だが、人の術では到底できない。
俺は腰袋から香草の束を取り出し、火打ち石で火花を散らした。
「これでどうだ」
煙が舞い、風の渦に吸い込まれる。
緋光草をほんの少し混ぜていたため、煙は赤く光った。
渦の中心で一瞬、輪郭が柔らかくなった気がした。
「ミア、笛を持ってるか?」
「え? 子どもたちの祭りで使ったやつ……ある!」
「それを吹け。風が音を欲してる。怒りより、呼びかける方がいい」
ミアが笛を取り出し、恐る恐る唇を当てた。
最初の音は風に掻き消えたが、すぐに旋律が重なった。
柔らかく、森の昼を思わせるような優しい音。
谷風がわずかに弱まる。渦がほぐれ、目に見えない何かが解かれていく。
「――止まった?」
渦の中心で、光が一つ、ゆっくりと回転しながら浮かび上がる。
小さな球体のようなその光は、やがてふっと消えた。
静けさが戻る。木の葉がわずかに触れ合い、鳥の声が再び響いた。
「終わったの?」とミア。
「いや……眠りについただけだ。あれは本当に“風の精”だ。封印が緩んで、目覚めかけていた」
「また封じなおした方がいい?」
「そうだな。ただ、怒っていたようには見えなかった」
碑石の周りには、わずかな緋色の葉が一枚、地面に落ちていた。
「これ……緋光草?」
「いや、もっと古い。似ているが違う。魂を鎮める系統の草だ」
ミアがそれを拾い、掌に乗せた。
風が吹き、葉がひらりと舞う。
「風が笑ってる気がする」
「そうかもな」
帰り道、谷の風は穏やかだった。
森の匂いが戻り、鳥の歌声が遠くに響いていた。
途中でミアがふいに言った。
「ねえ、封じられてた精霊も、ほんとは寂しかったんじゃないかな」
「……かもしれない」
「村の祠と同じなら、誰かが“そこにある悲しみ”を閉じたってことだもん」
彼女の言葉に頷く。
精霊も、森も、人も、何かを閉じ込めすぎているのかもしれない。
村へ帰る頃には、空が金色に染まっていた。
ベル婆さんが外で洗濯物を干していて、俺たちを見るなり言った。
「無事で何より。風の機嫌はどうだった?」
「静まりました。碑の封印を軽く整えただけです」
「風とは気まぐれなもんだ。人間もそうだがね」
その笑みが、とても穏やかに見えた。
夜、軒下に座って、一日の疲れを落とす。
遠くで笛の音が小さく聞こえた。
ミアが、再びあの旋律を吹いている。
――怒りではなく、呼ぶ音で。
風が吹き抜け、髪を揺らした。
その優しい手触りに、昼間の風の精の気配が重なる。
俺は静かに呟いた。
「静まれ、眠れ。明日もこの森が笑っていられるように」
谷からの風が、まるでそれに答えるようにそっと吹いた。
月明かりに照らされた木々が揺れ、夜が再び静けさを取り戻していった。
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