第16話 小さな怪我と大きな感謝
朝霧が薄れていくころ、村の広場から元気な子どもたちの声が聞こえてきた。
森の風が軽やかに流れ、薬草店の煙突から上がる煙は真っすぐに伸びている。
嵐の日が嘘のように、穏やかな朝だった。
ミアは早くも外に出て、店先の小さなプランターに水をやっていた。
「ライル、見て! ティルの芽がまた出たよ!」
「そうか。雨を吸って元気になったんだな」
「うん。森の声を聞いてるみたい」
彼女がしゃがんで土を撫でる指先に、弱い陽光が差す。
そんな平凡な光景を見ながら、俺の胸の奥にあの緋光草の記憶が現れては消えた。
――魂を結ぶ草。
夜の囁きが、今も耳の奥に残っていた。
昼近くになったころ、店に慌てた足音が飛び込んできた。
「ライル先生っ! にいちゃんが!」
子どもの声だ。
小柄な狐耳の少女――リリが泣き顔で立っていた。
「落ち着け、どうした?」
「森の坂で転んじゃって、血が……! うう、痛そうで!」
腰の薬袋を掴み、すぐに店を出た。ミアも後を追って走る。
森の外れにある小道の脇で、少年がうずくまっていた。
太ももに大きな擦り傷があり、泥と血が混ざっている。
彼の兄だろう、リリが顔を真っ赤にして覗き込んでいた。
「大丈夫。深くはない」
俺は落ち着いた声で言いながら、袋からティルの葉の乾燥粉を取り出す。
「ミア、水を」
「はい!」
小さな瓶から清水をかけて泥を流し、傷口を拭う。
少年が痛みに声を漏らした。
「我慢しろ。すぐ楽になる」
ティル粉とミント油を混ぜ、手のひらで温めてから塗りつける。
薬草特有の香りが一帯に広がり、風の中でほのかに甘く香った。
「どう、痛みは?」
「……あったかい。ひりひりしないや」
「それは治り始めた証拠だ。明日には歩ける」
リリが涙を拭きながら笑った。
「よかった……兄ちゃん、怪我しても泣かなかったよ!」
「お前が泣いた分まで、我慢したんだろう」
ミアが笑いながら包帯を巻く手伝いをする。
少年を家まで送り届けると、母親が深々と頭を下げた。
「助かりました。本当に……うちには薬がなくて」
「心配いりません。明日までは包帯を替えなくても平気です。熱が出たら、この薬茶を」
ティル茶を包んで渡すと、母親の目に涙が浮かんだ。
「村にあんたが来てくれて、本当によかったよ」
その言葉は、まっすぐ胸に届いた。
別れ際、リリが俺の袖を引く。
「ライル先生、ありがとう! ……ねえ先生、森が、笑ってるって聞こえたよ」
「笑ってる?」
「うん。木の上から“よくやった”って。ほんとだよ」
無邪気な笑顔に、思わず頬が緩んだ。
「森は目がいい。ちゃっかり見てるんだろうさ」
村へ戻る道中、ミアが鼻歌を歌っていた。
「やっぱりライルはすごいなぁ。子どもがあんなに笑ってたの久しぶりだもん」
「薬が効いただけだ」
「でも、あったかい顔してたよ。ああいうのも“癒し”だと思う」
その言葉に、少しだけ沈黙が落ちる。
森から抜ける光が、緑に透けて眩しかった。
その夕方、ベル婆さんが戻ってきて様子を聞くと、満足げに頷いた。
「人を助けるっていうのは、理屈より先に手が動くもんだ。いい仕事をしたじゃないか」
「あの子の怪我、明日には塞がるでしょう」
「それだけで十分さ。言葉より行動ってやつだね」
古井戸の話を言おうか迷ったが、結局、やめた。
――まだ確かめるべき時じゃない。
あの緋光草は、ただの薬ではない。魂の声が宿る草。
下手に話せば不安を広げるだけだ。
夜、ミアが台所で何やらごそごそと動いていた。
「何してる?」
「スープだよ。あの子のお母さんが言ってた。“お礼に作りすぎたから分けて”って」
鍋の中では、刻んだ香草と豆が煮込まれていた。
木の匙で混ぜながら、ミアが言う。
「ねえライル。人を助けるって、怖くない?」
「……昔は怖かった。命の重さを知るほど、手が止まるようになった。だが今は、少し違う」
「違うって?」
「この村では、救うことが戦いじゃない。日々の暮らしそのものが、誰かを癒している」
ミアは何度もうなずいた。
「うん……あたし、この村が大好き」
スープが出来上がり、湯気が部屋いっぱいに広がる。
香草と塩の香りが混ざり、腹が鳴った。
ベル婆さんが湯気の奥で笑う。
「これだよ、最高の薬は」
「温もり、ですか?」
「そうさ。食べて、笑って、生きる。どんな薬より効く」
匙を口に運ぶと、ほんのりと甘い味がした。
昼間の疲れが消えていくようだった。
その晩、寝床についたとき、ふと風の音が聞こえた。
窓の外では月明かりが淡く地面を照らし、村全体が眠りに沈んでいる。
そして小さな声が、まるで森の奥から届くように囁いた。
――ありがとう。
目を開けても、誰もいない。
聞き間違いかもしれない。
けれど、その声には確かに温もりがあった。
あの日の子どもたちの笑顔と混じり合い、心の奥に静かに染みていく。
俺はそっと目を閉じた。
小さな怪我、それでも心をつなぐ力。
癒しとは、こういうさりげない瞬間なのかもしれない。
どこか遠くで、森がまた優しく鳴いていた。
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