第15話 古井戸に咲いた緋色の葉

 夜語りから数日後、森の風は穏やかで、空は高く抜けていた。

 ルナフィアの村に季節の境目が訪れようとしていた。

 春と夏のあわい。

 太陽の光が強くなり、森の草木は一斉に伸び始める。

 薬草店でも棚の中の瓶が増え、乾燥草の香りがより濃く漂っていた。


 朝の巡り作業を終えたころ、ベル婆さんが奥から顔を出した。

 「ライル、村の北端にある古井戸を覚えてるかね」

 「納屋の裏の石造りのやつですか?」

 「ああ。最近、あそこから変な風が吹くって噂があるんだよ。獣人たちも近寄らない」

「風、ですか」

「昔から“風穴”って呼ばれていてね。井戸の底に空洞があるんじゃないかと言われてる。まぁ、気味が悪いってだけでも困るから、見てきてもらえるかい?」

 ミアがすぐ隣で聞き耳を立てていた。

 「行くならあたしも行く!」

 「おまえは店番だ」

 「えー!」

 「お互いの仕事を忘れるな」

 結局、渋々頷いたミアに見送られて、俺は井戸へ向かった。


 村の外れは人の気配が少なく、薬草畑の裏手は静寂が広がっていた。

 足元には霧の名残がうっすらと漂い、木々の陰が長く伸びている。

 古井戸は、苔むした石で囲われ、蔦が上から垂れていた。

 近づくと、確かに冷たい風が吹いてくる。

 だが、その風には――生きた草の香りではなく、土の深い匂いと、どこか焦げのような匂いが混ざっていた。

 「瘴気じゃない。けれど……不自然だな」


 覗きこむと、底の闇がゆらめいていた。水面ではない。

 小さな穴が通じているのか、微弱な光が下から差しているように見える。

 俺は腰袋から縄を取り出して縁に結び、ゆっくりと下へ降りた。

 石の内側は滑らかで、誰かの手が何度も触れた跡がある。

 数メートル降りたところで、横穴が現れた。

 そこには涼しい空気が流れており、壁の奥から淡い光が漏れている。


 「これは……植物の光か?」

 光源を確かめようと進んだ先で、見慣れない草を見つけた。

 地下にも関わらず赤く輝く葉。

 細長い茎の先が、月光のように透き通っている。

 触れると、微かにぬるい。

 まるで呼吸するように膨らんだり萎んだりしていた。

 「珍しい……緋光草(ひこうそう)か?」

 この地方では滅多に見られない薬草だ。だが普通は森の地表に生えるもので、井戸の底などには存在しない。


 小瓶に一枚の葉を摘み取った時、ふと、耳が痛むような音がした。

 「……風?」

 風というには奇妙だった。

 囁き声のようであり、少年の声のようでもあった。

 「だれ……?」

 暗闇の奥で、小さな影が動いた気がした。

 だが目を凝らしても何も見えない。

 ただ、緋色の葉が風に揺られ、淡い光を反射していた。

 次の瞬間、井戸の上から声が響いた。

 「ライル――! 大丈夫!? 返事して!」

 ミアだ。

 「平気だ! もう戻る!」

 慌てて縄を引こうとしたが、何かが足元を掠めた。冷たい風の塊のようなものが、膝をかすめたのだ。

 「……!」

 振り向く間もなく、縄を握りしめ地上へと這い上がる。

 井戸の縁から顔を出すと、ミアが飛びつくように覗き込んできた。


 「もう、勝手に行っちゃって……!」

 その目が潤んでいたのを見て、苦笑がもれた。

 「心配かけたな。だが、いいものを見つけた」

 俺は瓶の中の葉を見せる。

 ミアが目を丸くした。

 「なにこれ、きれい……! でも、この色、普通の草と違うよ」

 「緋光草だ。人の内熱を整え、痛みを鎮める。不安定な力を持つが、使い方しだいでは薬にもなる」

 「薬ってことは……また人を助けられるんだね」

 「そうなるといい」


 店へ戻る途中、ミアがふと足を止めた。

 「ライル。井戸の中で、なにか聞こえなかった?」

 「……風の音だけだ」

 「そう。あたしには、あそこから誰かが呼んでるように感じたの。言葉じゃなくて、お願いっていうか……」

 ミアの声は小さな風の鳴る音に混じっていた。

 俺は何と答えるべきか迷った。

 確かに、あの囁きはただの風音ではなかった。

 けれど、確証もないままに口にするのは避けた。


 夜、店の灯りを落としたあとも、緋光草の葉が頭から離れなかった。

 机の上で瓶の中の葉がほんのりと光を放ち、部屋を赤く染めている。

 ミアは既に寝息を立て、ベル婆さんも奥の寝室で静かに休んでいた。

 瓶を手に取り、光越しに中を覗く。

 葉脈が淡く脈打っている。まるで心臓のようだった。

 「森の奥で、何が呼んでいる……」


 次の朝、ベル婆さんはその葉を見た瞬間に息をのんだ。

 「まさか、これを……井戸で見つけたのかい?」

 「はい」

 「昔の言い伝えに、“緋色の草は魂を結ぶ”というのがある。病を癒す代わりに、持ち主の想いを吸い取るとも言われている」

 「つまり、命と引き換えの草……ですか」

 「使い方による。だが、軽々しく手を出すな。森が静かな今だからこそ、試すべき時ではない」

 「了解しました」


 その日の午後、緋光草の瓶を地下の棚にしまい封をした。

 ミアが不安げに見送る。

 「森の声、また聞こえるかな」

 「聞こえても、答えるのはまだ早い」

 「でも、ライルがいなくなったらイヤだよ」

 「行かないさ。約束しただろう」

 ミアは安心したように笑って頷いた。


 夜。

 静寂の中、再び風が吹いた。

 薬草棚の隙間から、かすかな音が漏れた。

 ――ライル。


 その一言が耳の奥に響いた気がして、手を止めた。

 風はすぐに途絶え、ただの夜の湿気が残る。

 それでも、胸の奥で何かが確かに応えた。

 その声は懐かしく、あたたかく、そして哀しかった。

 緋光草の葉が淡い光で、ひとときだけ明滅した。

 まるで心臓が、ゆっくりと打つように。

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