第14話 獣人族の伝承を聞く夜
雨が止んでから三日が過ぎた。
空気の湿りが消え、森の緑は一段と濃くなっている。
嵐の夜に見た青い光のことを頭の片隅に抱えながらも、村の暮らしは再び穏やかな日常に戻っていた。
ベル婆さんの咳も治まり、薬草店にはいつもの客たちが顔を出す。
「おばあちゃん、今夜はみんな集まるんだって!」
ミアが鼻先をふくらませて言った。
「集まる?」
「うん。春の雨が明けた夜は、獣人族の古い物語を語るならわしなの。男の人も女の人も、若い子も聞く夜の集会!」
「物語?」
「そう。“夜語り”って呼ぶんだよ。おばあちゃんが話す番もあるの」
その夜、村の広場には焚き火が焚かれ、輪になって座る村人たちでいっぱいになった。
香草を火にくべると、煙が甘く漂い、森の精霊に捧げる匂いが空気いっぱいに広がっていく。
風が落ち着き、星も雲間から顔を覗かせた。
ベル婆さんは杖を突きながら火のそばへ出る。
その姿を見ただけで、村の子どもたちは口を閉じた。
「今日は、“風と獣と人の始まり”の話をしようじゃないか」
ベル婆さんの声は静かに、しかしどこか遠い過去の音を含んでいた。
「むかしむかし、森にまだ言葉がなかったころ、風が最初に歌を覚えた。風が流れるたび、草は揺れ、獣はその音を真似た。そして、人がその真似をさらに真似したんだとさ」
火がパチパチと鳴る。村人は皆、息をひそめて耳を傾けた。
「けれど、人は風を追い越そうとした。風を閉じ込めて、形にした。石に、鉄に、剣に。獣はそれを怖れ、森の奥へ逃げた。人と獣との時代が分かれたのさ」
語り部の声が上がるたびに、焚き火の明かりが強まり、炎の影が人々の顔を照らす。
「そして、風が言った。『争うな、いずれまた同じ音を奏でる時がくる』と」
「……それが今のお祭りや歌の始まりなんだね」ミアが隣で小声で囁く。
「きっとそうだ」俺は答えた。
続けて若い男の語り部が前に出る。
彼は大きな狼耳を持ち、声は深く低かった。
「俺が話すのは“月狼の誓い”だ。夜に光りながら森を駆けた狼が、風の精霊に願った。『人と獣が共に眠れる夜をくれ』と。風は答えた。『それには勇気を差し出せ』と。だから狼は、自分の牙を折って森の入口に埋めた。今でも月の昇る夜に、その牙が光るんだ」
子どもたちが「ほんと?」「見たい!」と声を上げる。
ミアが笑って言った。
「この話、好きなんだ。森の入口で光る石はその伝説の牙だって言われてるの」
火が高く燃え上がったとき、ベル婆さんが再び口を開いた。
「さて……この夜に、遠くから来た人の話を聞くのも、悪くないねえ」
突然自分に話題が向けられ、俺は思わず背中を伸ばした。
「ライル、あんたの旅の話を少し聞かせておくれ。戦ばっかりでもかまわんよ」
焚き火の明かりがゆらめき、村人たちの視線が集まる。
沈黙が長く続いたあと、俺はゆっくり息を吐いて言葉を探した。
「……昔、俺は風を切る剣を握っていた。敵を倒すたび、強くなったような気がしていた。でも、いつしか風は何も運んでこなくなった。血と煙ばかりだった」
火のはぜる音だけが響く。
「ある時、仲間が言った。『勝っても心が癒えないなら、戦う意味がない』と。その言葉を胸に、俺は剣を置いて旅に出た。そこにあったのが、この村だった」
ミアがそっとこちらを見る。
ベル婆さんは黙って頷いた。
「今、森の風を聞くたびに思うんです。戦っていたころには聞こえなかった“音”があると」
俺は掌に感じる微かな風の流れを確かめた。
「それは、草の揺れる音でも、焚き火の音でもない。人の笑い声とか、息づかいとか……生きてる音だ」
言葉が落ち着くと、焚き火の火が一度大きく点ったように見えた。
ベル婆さんが手を叩いて笑う。
「いい話じゃないか。風も喜んでるよ」
「まるで勇者と森の物語みたいだ!」と子どもが叫ぶ。
広場が一気に明るくなり、笑い声が戻った。
ミアが炎に照らされながら、俺の袖を引いた。
「ライル、ねえ、風ってきっと“心”のことなんだよね。見えないけど触れるもの」
「だろうな。森も人も、それを忘れた時に迷うんだろう」
やがて夜は更け、焚き火が小さくなっていった。
村人たちはそれぞれ家へ戻り、静けさが降りる。
ミアと並んで裏道を歩く途中、遠くの木々が揺れていた。
「ねえライル、あの青い光、もう見えないね」
「きっと風が運んでいったんだろう」
「うん。でも、あの光が悪いものじゃなければいいな」
「祈りは届くさ。風も見守っている」
歩きながら振り返ると、焚き火の残り火がまだ揺らめいていた。
その赤い光の中に、ほころぶようにミアの横顔が浮かぶ。
家に着くと、ベル婆さんはまだ起きていた。
「よく語ったねぇ、ライル。あんたの話、あの子らの心に残るよ」
「いや、まだ未熟な語りです」
「いやいや、言葉は形より心だ。“伝えた想い”が風になる。そう教わったろ?」
ベル婆さんはそう言って笑い、再び火をかき立てた。
「明日の朝は森の端に霧が降りる。その風を吸えば、一年は健やかに暮らせるよ」
その声を聞きながら、俺は火のあたたかさを感じていた。
外の闇は深く静かで、木々のざわめきが子守唄のように響く。
夜語りの焚き火は、小さな余熱を残して消えていった。
けれど、その温もりは確かに胸の奥に留まっていた。
風の音がまた聞こえる。
まるで、森が「まだ続きがある」と囁くように。
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