第13話 雨の日のスープと毛布
祭りの翌日から、空模様が怪しくなった。
朝から重たい雲が空いっぱいに広がり、風の匂いが湿っている。
「今日は外に出ないほうがよさそうだね」
ミアが窓を見上げながら呟いた。
村人たちもそれぞれ家に籠もり、広場の屋台は片づけの途中で止まっている。
森の奥から、遠く雷鳴がひとつ響いた。
「どうせなら、こういう日はゆっくり過ごすさ」
棚から茶葉の瓶を取っていると、ミアが籠を抱えて戻ってきた。
「おばあちゃん、咳が出てるの。あたし、おかゆ作ってもってくね」
「俺も行こう」
「いいの? 雷、苦手じゃない?」
「……昔は剣と火の音ばかり聞いてた。今さら雷くらいどうということはない」
そう言いながら、どこか照れくさい気持ちになる。
軒先を出たとたん、雨が落ち始めた。
森の葉を叩く音が強まっていく。
細い道を歩くと、土の匂いが濃くなって、胸の奥に染みるようだった。
ベル婆さんの家に着くころには、もう全身が濡れていた。
扉を叩くと、中から低い声が返る。
「入んな。湯を沸かしてあるよ」
囲炉裏の火が赤々と燃えていた。
ベル婆さんは毛布を肩にかけ、煙管を置いて俺たちを見た。
「ミア、スープを煮るんだろ。鍋はそのまま使いな」
「うん!」
ミアがテキパキと薬草と野菜を切り始める。
玉ねぎを刻む音がトントンと響く中、俺は火の番をしていた。
「ライル、あんたも世話焼きになったねぇ。昔の戦士とは思えん」
「俺はもう剣を置いた身ですから」
「置いても、心に火は残るんだよ。だが、あんたはその火を人のために使えてる」
そう言うと、ベル婆さんは微笑んだ。
その笑みは皺の奥まで優しかった。
ミアが鍋の中に香草を入れると、湯気がふわりと立つ。
「森の薬草スープって、おばあちゃんが若い頃から作ってたんだよ」
「そうねぇ。雨の日は、体も気持ちも冷えるから」
匙で味見をしたミアの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん、完璧!」
皿に注ぎ、ベル婆さんの前に置く。
「おばあちゃん、ほら」
「ありがとう。あんたたちがくると家の中まで晴れになるね」
雨音が屋根を叩く中、三人でスープをすすった。
香草の香りが鼻を抜け、舌の上にまろやかな旨味が広がる。
「この味……なんだか懐かしい」
「ティルの根を加えたからだよ。森の甘み」
「ふむ。まじないの味だな」
ベル婆さんが笑いながら湯飲みを手に取る。
「まじない?」
「癒す料理はみんなそうさ。気持ちを込めて作れば、それだけで体が温もる」
その言葉に、ミアと目を合わせて微笑んだ。たしかに、作った人の優しさが熱になるのかもしれない。
しばらくして外の雨脚が強くなった。
雷がひとつ鳴る。
ミアが肩をすくめて俺の方へ顔を向ける。
「ライル、怖いの?」
「まさか。雷より、焦げた鍋のほうが怖い」
「もう! 心配したのに!」
ミアがぷいっと横を向く。
ベル婆さんがうっすら笑って言った。
「仲がいいねぇ。まるで昔の私たちみたいだ」
「昔?」
「若い頃、一緒に薬を作ってた相棒がいたんだよ。人間の男でね」
「人間が?」
「そうさ。国境も違うってのに、森の草の話になると止まらなくてね。けどある日、戦が起きて生き別れた」
ベル婆さんの目が細くなり、火の中を見つめる。
「――でも、また風が運んでくれる気がしてる。だから私はこの村を離れなかった」
その静かな声に、胸が締めつけられた。
ふと、窓の外で何かが閃いた。
雷の光かと思ったが、違う。
森の向こう、低く揺れる淡い青の光――。
ミアもそれに気づいて肩を寄せる。
「ねえ、あれ……祠のほう?」
「そうだな。小さな光だけど、普通の稲光じゃない」
ベル婆さんは湯飲みを置き、真剣な眼差しになった。
「また瘴気が動いたのかもしれんね」
外は激しい雨。だが、放っておけるはずがなかった。
「火が落ちてきたら危ない。ミアはここで婆さんを頼む」
「行くの?」
「ああ、確認だけだ。すぐ戻る」
ミアは唇を噛んで頷く。
「わかった。でも……気をつけて」
外に出ると、雨が容赦なく顔を叩いた。
ランプの光を庇いながら森道を駆ける。
足元の泥が跳ね、靴に冷たい水が染み込む。
祠のある方へ行くほどに、風が強くなっていった。
――その時、木々の間を青白い閃光が走った。
地面が震え、耳をつんざく轟音。
「嵐との合わせ技か……」
小声で息を吐く。祠の方向から、微かに燃えるような匂いがしていた。
近づくと、あの裂け目の跡に刻まれた印がかすかに光っている。
だが砕けた石の隙間には何も見えず、煙もない。
ただ風が渦を巻いて、ひとひらの花びらを運んでいった。
ティルの花だ。
まるで「問題ない」と告げるように、光を吸って消えた。
雨が少し弱まる。
安心するより先に、背筋がぞくりと冷えた。
見られている――そんな気配がしたのだ。
振り向くと、森の奥に黒い影が一瞬だけ揺れた。
だが、次の瞬間には何もいなかった。
「気のせい……じゃなさそうだな」
雨が再び強くなる前に、俺は村へ引き返した。
ベル婆さんの家に戻ると、ミアが毛布を持って待っていた。
「びしょ濡れじゃない! 早くこれ巻いて!」
火の側に座ると、温もりがゆっくり戻ってくる。
「森は?」
「光は消えてた。封印は保たれている。ただ……誰かが見ていた気がした」
「誰か?」
「姿は見えなかったが、気配だけはあった」
ベル婆さんが静かに頷いた。
「風が荒れる時は、森も落ち着かない。だがあんたが戻ることを、森は一番喜んでる」
「戻る?」
「風と森と人は、みんな巡りだ。離れても、必ず戻る時があるってことさ」
ミアが火に新しい薪をくべ、湯気を見上げながら言った。
「ねえライル。また明日、森に行こう。今度は晴れの日に、ティルの花を見に」
「そうだな。雨のあとなら、きっと新しい花が咲く」
雷の音が遠ざかる。
外の雨音が静かに変わり、夜の闇に溶けていった。
毛布に包まれた温もりと薬草の香りが、疲れた体を静かに癒していく。
――嵐の夜も、きっと森の一部なのだろう。
そう思いながら、ゆるやかに瞼を閉じた。
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