第11話 薬効とまじないの境界
出発の日の朝、森は霧に包まれていた。
湿った風が頬を撫で、鳥の声さえも遠く感じる。
荷をまとめ、肩掛けの袋に最低限の薬草を詰める。ベル婆さんが玄関に立ちながら、古びた布を差し出した。
「昔、旅に出る弟子に渡したお守りさ。森の符を縫い込んである。持っていきな」
布は小さく、藍の糸で精霊の紋が縫われていた。
「頼りにしてるよ」
「ありがとうございます」
少し照れながら受け取ると、ミアが袖を引いた。
「ねえ、昨日のうちにおばあちゃんと作ったの。手のひらの薬塗りを」
掌大の小壺を取り出す。淡い緑色の軟膏が入っており、爽やかな香りがする。
「旅先で小さな傷をした時、塗って。癒し草と、まじないも入れてあるの」
「まじない?」
「うん、“戻る人の草”を混ぜた。無事に帰れるように」
ミアの瞳が曇りのない笑顔を浮かべる。胸の奥で、見えない灯がともるようだった。
村の門で別れを告げる。
ベル婆さんは杖を突きながら、低く笑った。
「人は行くべき時に行って、戻るべき時に戻るものさ」
「分かってます」
「あとでちゃんと結婚の報告をしに来なさいねー!」と、パン屋のシェナが冗談半分で叫び、ミアが真っ赤になる。
その光景が、少し温かくて悲しい。
俺は胸に灯る言葉を残して、森をあとにした。
裏街道は、思っていたよりも荒れていた。
かつて交易の道として使われたらしい石畳は草木に覆われ、ところどころ崩れている。
日差しが漏れるたびに、虫が羽音を立てて舞い上がる。
足元の土は湿っていたが、獣の気配も薄い。
瘴気の影響はまだ広がっていないらしい。
峠の集落に着いたのは正午近く。
木の小屋が五、六軒、崖沿いに建っており、煙突から細い煙が上がっている。
門の前に座っていた年寄りの獣人が、俺を見て目を細めた。
「人間が通るなんざ、久しぶりだな」
「ルナフィアの村から来ました。風見人に用がありまして」
「風見か。あいつなら上の小屋だ。だが気をつけろ、“呪(まじな)い”を信じない連中とはあまり話をしたがらん」
「呪いを?」
老人は口をすぼめ、煙管を叩いた。
「森の魔に向き合うのに必要なのは“祈り”だとかなんとか。あいつらにしてみれば薬草もただの匂い袋扱いさ」
言葉の端に棘があった。
薬師とまじない師、科学と信仰――どちらの世界でも、交わりは難しいらしい。
俺は軽く礼を言って、坂道を登った。
風見人の小屋は、木々の端に建っていた。
扉を叩くと、しばらくして白い外套の男が現れた。
年の頃は三十前後。髪に羽根の飾りをつけ、瞳は空のような灰色。
「薬の匂いだな。誰を探している?」
「あなたが風見人で?」
「ああ。俺はエルネ。風の流れを読み、森の声を聞く。あんたは?」
「ルナフィア村の薬師、ライルと申します。山の祠の封印が破れかけており、瘴気が漏れています」
エルネの瞳が鋭く光った。
「やはりか。風が南から汚れてきていた。気づいたのは三日前だ」
「止められますか?」
「祈りが届けば、瘴気は沈む。だが、どちらの祈りを使うかが問題だな」
男は部屋に招き入れ、棚の上の奇妙な石板を指さした。
まるで翼の形をした文様が刻まれている。
「これは古の“風祈石”。この地では薬草での治癒より、風を通じた祈りの方が尊ばれてきた」
「だが現実には、それで誰かを救えるわけではないでしょう」
「救えはせぬ。だが“調和”は保てる。薬は外を癒やすが、風は内を癒やす。瘴気は心と土の交わる場所から生まれる」
「つまり、ただ祠を修復するだけでは意味がないと?」
「そうだ。祈りと薬、両方が必要だ」
その言葉は意外で、同時に納得でもあった。
過去の戦で、俺は力と薬だけで癒そうとして失敗した。
心を見ずに、体ばかり治そうとして。
もし本当に瘴気とは魂の歪みの化身ならば、人の“想い”も治療の一部なのだろうか。
「今夜、儀を行う」とエルネが言った。
「瘴気を鎮める風を呼ぶが、そのためには薬の助けもほしい。あんたの言葉で草を眠らせてくれ」
「……わかりました」
夕刻、崖の上に小さな祭壇が組まれた。
木の板を組み、上には乾燥ドライナとティルの花が並べられている。
エルネが両手を広げ、風を受けて呪文を唱える。
風が渦を巻き始め、草の香りが空気に溶ける。
俺は祠で使った樹脂を火にくべた。
煙が上がり、柔らかな光が漏れる。
「風よ、遺すことなく巡れ」
言葉が無意識に口からこぼれる。
風が揺れ、山の遠くから淡い光が走った。
青白い瘴気の筋が、一瞬、光に溶けるように消える。
エルネが息を吐き、杖を下ろした。
「成功だ」
「封印が閉じたのですか?」
「ああ。森の風が穏やかになった。だが完全じゃない。あの祠の奥に、まだ“声”がいる」
声――その言葉に、胸の奥で小さな痛みが走る。
あの夜、狼の目の奥で見たもの。それは恐怖ではなく、訴えるような光だった。
「ライル。あんた、昔に大きな力を持っていたな?」
「……どうしてそれを?」
「風は覚えてる。“斬る風の子”と同じ匂いがする」
まるで過去を覗き込まれたような感覚。
「過去は関係ない。今は薬師だ」
「そうか。しかし、記憶を閉じたままでは風は味方をせんぞ」
夜風が冷たくなり、炎がぱちぱちと弾けた。
薬草の香りが空を満たし、どこからかフクロウの鳴き声が響く。
俺は静かに目を閉じ、遠くの村の光を思い浮かべた。
ミア、ベル婆さん、子どもたちの笑顔。
帰る場所を思うだけで、不思議と胸の重みが軽くなる。
「祈りは形ではなく、帰る風向きのようなものだ」と、エルネが呟いた。
「その風を覚えていれば、どんな瘴気も必ず鎮まる」
「なるほど。薬効とまじないの違いは、外側を見るか、内側を見るかということか」
「それに気づいたなら十分だ。あんたがこの村の守り人になる日も、遠くはない」
月が雲間から姿を現し、風が山を越えて森へと流れていった。
その風の中に、どこか懐かしい香りが混じっていた。
まじない草の匂い、そして微かにミアの手から渡された軟膏の甘い香り。
俺は空を見上げ、小さく息を吐いた。
――必ず、戻る。
そう心の中で誓いながら、炎の火を見つめ続けた。
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