第10話 騒ぎのあとに淹れる茶

 村へ戻った夜、空はどんよりと曇っていた。

 森の奥で見たあの瘴気の光が、まだまぶたの裏に残っている。

 家々の灯が揺れ、焚き火の煙が漂う。

 まるで村自体が、静かな呼吸を整えているようだった。


 ベル婆さんの薬草店に戻ると、ドアの前でミアが振り返った。

 「おばあちゃんに、ちゃんと話す?」

 「もちろんだ」

 扉を開けると、ベル婆さんは火のそばに座り、編み物をしていた。

 祭の灯りのように、暖色の火がその横顔を照らす。

 「おやまあ、無事に帰ってきたね」

 「祠の封印が破れていた。瘴気は少し漏れていたが、応急処置で押さえた」

 「そうかい……。やっぱり、山の祠が古くなったんだね」


 ベル婆さんは手を止めて深く息をついた。

 「昔、その祠には“獣の魂”が祀られていたんだよ。人と獣がまだ争っていた頃にな。戦で命を落とした者たちの恨みを封じて、二度と血が流れぬようにしたって話さ」

 「だったら、その封印を壊したのは人の仕業かもしれません」

 ミアが不安そうな声を出す。

 ベル婆さんは静かに頷き、火の上の薬缶を手に取った。

 「まあ、茶でも飲みな。話しながら考えよう」


 湯気の立つ草茶が三つの木杯に注がれる。

 その香りは、不思議なほど落ち着く匂いだった。

 「これは?」

 「ダク草の根と乾燥リンカの葉を煮出したもの。緊張を和らげるのさ」

 「まさに今にぴったりですね」

 湯気を吸い込むたびに、胸のざわつきが少しずつ溶けていく。

 ミアが両手で杯を包み、火に照らされた目を細めた。

 「祠のこと、村の人に話す?」

 「明日でもいいさ。あんたらが無事だったことを知れば、みんな安心する」


 その夜は早めに休もうとしたが、どうしても眠れなかった。

 月が雲に隠れ、風が木壁を叩く。

 枕元に積んだ薬草の束が、さやさやと音を立てて揺れた。

 あの黒い狼の眼が、ふと脳裏をよぎる。

 瘴気に侵された獣――だが、あれはどこか人を思わせる動きだった。

 意志があったように見える。

 “誰かが呼んでいる”ような、得体の知れない違和感。


 翌朝、ミアが元気に戸を開けた。

 「ライル、おばあちゃんがお客さん呼んでる!」

 「客?」

 外に出ると、村長のダグ爺が立っていた。

 分厚い毛皮をまとい、眉の間には深い皺。

 「聞いたぞ、山で封印が壊れてたそうじゃないか」

 「ええ。原因はまだ不明です」

 「まったく、最近どうも妙なことが多いんだ。山の裏でも、畑の家畜が怯える夜がある。光が走ったって声も聞いた」

 「光……」

 やはり関連があるらしい。


 ベル婆さんが薬草を包みながら言った。

 「ダグ、森の巡りを見守る“風見人”に報せておいた方がいいね」

 「そうだな。だが峠を越えるのは骨が折れる」

 「なら、ライルが行くさ」

 唐突にそう言われ、思わず顔を上げる。

 「俺が?」

 「森を歩けて、気配を見抜ける奴なんてそうそうおらん。お前が行くのが一番確かだよ」

 「……確かに、放っておけば被害は広がるかもしれません」

 ミアがすぐに口を挟んだ。

 「じゃあ私も!」

 「いや、ミア。今度は置いていく。村を守るために、誰かが残らねば」

 「でも――!」

 鋭い声にミアは口を閉じた。

 怒ってはいなかった。ただ、本能的に分かっていた。

 何かが動き出している。簡単には終わらないことが。


 ダグ爺は杖を鳴らし、短く言った。

 「出発は二日後だ。裏街道を通るなら、峠の集落で物資を整えていけ。風見人はそこの奥地にいる」

 「承知した」

 打ち合わせが終わった後、ベル婆さんが茶を淹れ直した。

 香ばしい匂いが部屋に満ち、ふと穏やかな時間が戻る。

 「怖くはないのかい、ライル」

 「怖いですよ。けれど……今はそれだけじゃない」

 「どういうことだい?」

 「この村を守りたいと思うのが、ただの義務じゃなくなりました」

 そう言うと、ベル婆さんは目を細め、笑った。

 「やれやれ、いい顔になったね」


 昼の市場へ出ると、村人たちがいつもどおりの声をあげていた。

 陽気な掛け声、焼いた魚の匂い、子どもたちの笑い声。

 昨日の不安が嘘のように、春そのものの空気が満ちている。

 ミアはパン屋のシェナと話しながら、小瓶を握って駆け寄ってきた。

 「これ、旅の前にこれ飲んで! 気付け薬だって。おばあちゃんの代わりに私が作ったの」

 瓶の中には琥珀色の液体。

 「味は保証できないけど……心が落ち着くように祈って作ったから!」

 「祈りの薬か。効きそうだ」

 ミアの顔が照れたように赤くなる。


 帰り道、風が吹き抜け、木々がざわめいた。

 枝の間からこぼれる光が、まるで約束のように均等に揺れている。

 「ミア」

 「なに?」

 「もし俺が戻るのが遅れたら、村の森道に細い柵を立ててくれ。瘴気の拡がりを防げる」

 「やだな、戻ってくる前提じゃないみたいな言い方」

 「ちゃんと戻るさ。ただの予防策だ」

 そう言うと、ミアは唇を尖らせたままうなずいた。

 「絶対だよ」


 夜、再び薬草店の火を落とす。

 明日で穏やかな日々は一度区切りを迎えるかもしれない。

 だが不思議と心は静かだった。

 茶の残り香が鼻をくすぐり、ゆっくりと息を整える。

 湯気のあとが木の机に淡く残り、それがまるで祈りの跡のように見えた。


 「騒ぎのあとに淹れる茶ほど、落ち着くものはないな」

 誰にともなく呟き、杯を軽く傾けた。

 淡い苦味と草の香りが、夜の静寂の中に溶けていった。

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