第9話 森の外れの小さな異変

 山道は朝の靄に包まれていた。

 森を抜けると、霧の層が薄れ、日の光が鱗のように木の間を照らしている。

 コルドの荷馬が鼻を鳴らし、草を踏みしめながら歩く音が一定のリズムで続いた。

 ミアは少し先を軽やかに歩き、時折地面の草や花を指さしては名前を呼んだ。

 「この谷の草、全部おばあちゃんに教わったんだ。ほら、あれが“雪咲き葉”。疲れを取るの」

 「なるほど。確かに空気が澄んでいる」

 俺は歩きながら、気配を探っていた。春の森のはずなのに、どこか冷たさが混じっている。

 鳥の声が急に遠のき、足元の土に湿気が増していく。

 「この先だな」とコルドが低く言った。


 午前中のうちに村を離れ、もう四時間ほど歩いている。

 峠の下、森の外れに近づくにつれて、木々の葉色が暗さを増していた。

 「なんか変な匂いがする」ミアが眉をひそめる。

 乾いた金属と焦げたような匂い。それはかつて幾度も戦場で嗅いだ、嫌な記憶を引き起こした。

 「火事じゃないな。……瘴気だ」

 口に出した瞬間、体が冷たくなる。

 コルドが頷いた。

 「俺が来た時もこの匂いがした。夜には風に乗ってここまで届いたよ」


 茂みをかき分けていくと、小さな祠が現れた。

 木材は朽ち、屋根の瓦が落ちかけている。

 祠の前に立つ石灯籠の片方は倒れていて、その下に黒く焦げた跡が広がっていた。

 「ここが噂の場所か」

 「そう。昔は安全祈願の場所だったけど、何十年も人が来てない」


 近づくと、地面に微細な裂け目があり、そこから淡い青白い光が立ち上っている。

光というより、煙のようなもの。冷たく、肌に触れると刺すような感覚が走った。

 「ライル、これって……」

 「封印が裂けてる。古い術式だ」

 石の基盤に刻まれた古代文字は、かろうじて形をとどめていた。

 崩れた部分から瘴気が僅かに漏れ出している。

 「昔の戦で犠牲になった獣か、魂の残滓を祀ってあったんだろうな。長い年月で護りが弱まったんだ」


 コルドが荷から布を取り出した。

 「これで塞げるか?」

 「一時的には。……ただし原因を断たなければまた開く」

 俺は草袋から薬草を出した。香気の強い“ティル樹脂”と、封印補助に使える乾燥ドライナ。

 それを混ぜて焚くと、煙が瘴気を押し返すように揺れる。

 「いい匂い……」ミアが小声で言う。

 眠気を誘うような甘い香りが一帯に広がった。

 「このまま祠の傷に塗り込んでいけば応急処置はできる」

 「そんなことまでできるなんて、さすが元勇——」

 ミアが言いかけた言葉を、俺は軽く手で制した。

 「それは昔の話だ。今は薬師だ」

 ミアはうなずき、黙って俺の手元を見守った。


 光が弱まり、空気の重みが緩む。

 遠くで鳥の声が戻り、小さな風が頬を撫でた。

 「封印は保った。けど、一晩もしないうちに壊れるな」

 「どうして?」

 「原因が中にある。誰かが意図的に術を削った形跡がある」

 石板の角には、鋭利な傷跡が残っていた。自然に崩れたものではない。

 人か魔物、それとも――。


 その時、岩影が動いた。

 反射的に腰の短剣を抜く。

 “それ”は人影のようで、人ではなかった。

 黒い毛並みに包まれ、四足で立っている。目が赤く輝く。

 「魔化した狼……!」

 ミアが息を呑む。

 封印の瘴気にあてられ、野生の獣が変質したのだ。

 鋭い牙を剥き出しにし、こちらを狙って低く唸る。


 俺はナイフを反転させ、足元の草袋に手を伸ばした。

 「ミア、下がれ。コルド、馬を抑えろ!」

 「了解!」

 狼が滑るように走り出す。

 距離は十歩。

 俺はドライナの粉を地面に叩きつけ、足で蹴り上げた。白い煙がもくもくと立ち上がり、狼の視界を遮る。

 鼻を突く匂いに獣が唸り、動きが鈍る。

 その隙を逃さず、俺はナイフの柄尻で地面を三度叩いた。

 ティル樹脂の残り香と魔除け草の混合香が弾け、紫の火花が舞う。

 低い音とともに煙が膨らみ、狼は数歩後退した。


 「走れ!」

 ミアとコルドを押し出し、俺は祠へ戻ってまた印を描く。

 「封印よ、再び結われ!」

 傷跡に香草の灰を擦りつけると、青い燐光が走り、裂け目が閉じていった。

 狼は苦しげに後ずさり、やがて森の奥へ逃げ込んだ。


 静寂が戻る。

 息を整えながらミアの顔を確認する。擦り傷一つない。

 「無事か?」

 「うん……でも今の、すごかった」

 「あれは即席の術だ。時間稼ぎにすぎない」

 コルドがため息を吐く。

 「間違いないな。俺が見た光は、封印の瘴気だ。だが、誰がこんなことを……」


 俺は祠の後ろを調べた。

 そこには、人の足跡があった。

 乾いた泥に、革靴の跡がくっきり残っている。

 「人間……それも、最近のものだ」

 コルドが険しい表情になる。

 「峠を越える人間なんて、俺くらいのもんだぞ」

 「他の目的で来た者がいるらしいな」


 太陽が傾き始め、祠に光が差す。裂け目が完全に閉じ、青白かった光が金に変わって消えていく。

 「今日のところは大丈夫だ。だが誰かが再びこれを開けば、次は村まで瘴気が広がるかもしれない」

 「戻って知らせた方がいいね」とミアが言う。

 「そうだな。夜になる前に村に着こう」


 帰り道、夕陽が森の奥を赤く染めていた。

 ミアが不安げに口を開く。

 「ねえライル、もしまたあの封印が壊れたら?」

 「その時は俺が閉じる。それだけだ」

 「怖くないの?」

 「怖いさ。でも、あの光を放っておいたら、村が危険になる」

 ミアは少し黙り、それからにっこり笑った。

 「じゃあ、次は私も手伝う。きっと森のみんなも」

 その言葉に、胸に沈んでいた重さがほんの少し軽くなった。


 村の灯りが見え始めたころ、コルドがぽつりと呟いた。

 「ライル、またしばらく山を回ったら戻る。封印の具合を確かめるためにな」

 「助かる。次に会う時は、もう少し穏やかな取引になるといいが」

 「はは、まったくだ」


 夕闇の中、森がざわめく。

 遠くの祠で、微かな光が一瞬だけ瞬いた気がした。

 心の奥に、冷たいものが残る。

 それでも俺は決めていた。

 剣は取らない。しかし、この村を守るためにできることは、すべてやる。

 そう胸の奥で静かに誓いながら、俺は歩を早めた。

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