第8話 山の彼方から来た旅商人

 昼下がりの風は、春の匂いを運んでいた。

 森の奥では鳥たちがさえずり、店先の棚に並ぶ薬草たちも、陽光を受けて鮮やかに揺れている。

 ミアは窓辺で瓶に貼る札を書きながら、尻尾をゆらゆらと揺らしていた。

 ベル婆さんは店の奥で客の話を聞きながら、軽く咳をした。

 「おばあちゃん、大丈夫?」

「年を取ると、春の花粉がこたえるのさ。心配いらんよ」

 ミアは小さく眉をひそめたが、すぐに笑顔に戻った。

 そんな穏やかな時間の中、村の坂道の向こうから、鈴の音が響いた。


 「旅商人だね」とミアが顔を上げる。

 しばらくすると、一頭の毛並みの良い荷馬を連れた青年が見えた。

 腰に染め布を巻き、背には木箱を背負っている。

 「珍しいな。外から村に来る商人なんて久しぶりだ」

 俺が言うと、ベル婆さんが軽く目を細めた。

 「あの男、昔この辺りにも顔を出してた“コルドの雑貨屋”だね。山越えする商いは骨が折れるのによく来たもんだ」


 やがて青年が店先へとやって来た。

 「こんにちは、ベルさん。それに……見慣れない顔だね」

 「新しく働いてくれてるライルだよ。ここの若先生さ」

 俺が軽く頭を下げると、青年は人懐っこく笑った。

 「俺はコルド。薬草や香辛料、それに山の民の薬酒なんかを運んでる。よろしく」

 「遠くから来たんだろう。この季節、山道はまだ冷えるだろうに」

 「まったくその通り。峠の雪がようやく溶けて、荷馬が足を取られかけたよ」


 ベル婆さんがカウンター越しに言った。

 「しばらく泊まっていきな。あんたの持ってる“白薬酒”を少し分けてくれるかい? こっちの薬草と物々交換でどうだい」

 「これだからベルさんは助かる。取引成立だ」

 そう言ってコルドは笑い、木箱を開いて瓶を取り出した。

 中には透明な液体が満たされ、瓶の底には金糸のような草が沈んでいる。


 ミアが目を輝かせた。

 「これが山の民のお酒? すごい、星みたい!」

 「“雪光草”って薬草を漬け込んであるんだ。熱を下げ、血の巡りを良くする。飲みすぎると笑い上戸になるけどね」

 コルドの軽口に、ベル婆さんは声を立てて笑った。

 「こりゃ夜に少し湯で割って飲むといい。腰の痛みにちょうどいいよ」

 「なら、俺も一本買っておこう」

 そう言いながら財布を出すと、コルドが首を振る。

 「あんた旅人だろ? だったら話をひとつ聞かせてくれ。この先の峠道で、妙な光を見たって噂を聞いた。何か知らないか?」


 妙な光。思わずミアと目が合う。

 「森の中でも同じ話を聞いた」と俺は答えた。

 「夜中、光が漂う。だが、それは蛍でも人でもない」

 コルドは少し表情を曇らせる。

 「俺もその光を見た。獣じゃない、もっと……冷たい感じだった。嫌な風の匂いもした」

 「風に匂い?」

 「錆と血の混ざったような匂いさ」


 その言葉に、遠い記憶が胸を刺した。

 戦場で嗅いだ、焼け焦げた鉄と肉の匂い。

 嫌な感覚が一瞬、首筋を走る。

 「その光は、峠のどの辺で?」

 「北の岩場だ。古い祠がある場所」

 ベル婆さんが小さく息を飲んだ。

 「……まさか、封印が緩んだのかね」

 「封印?」ミアが首を傾げる。

「昔、あの祠には魔の器を封じたって言われてる。山の祠が崩れると、瘴気が出るんだよ」


 一瞬、店の空気が重くなった。

 コルドが荷馬の手綱を握りしめる。

 「実はもう一泊して、朝になったら確かめに行こうと思ってる。でも一人じゃ危険だ。近くの村から誰かに同行してほしい」

 「俺が行こう」

 自然に声が出た。

 ミアが驚いたようにこちらを見る。

 「ライル、それって……」

 「放っておけば、村に影響が出る。確認だけでも行く価値はある」

 「なら、私も!」

 勢いよく名乗り出るミアを、ベル婆さんが止めようとしたが、すぐに苦笑して首を振った。

 「ミアはあたしに似て頑固だ。行くって言ったら聞かん。まあ、ライルが一緒なら大丈夫だろう」


 夜、村の宿に泊まるコルドを訪ねると、彼は地図を広げていた。

 「明日の朝、ここを出て森を抜けたら半日の距離だ。峠の風は冷たいから厚着をしてこい」

 「了解した。……正直、あんたの話が気になる」

 「俺もさ。商売で何度も通ったけど、あんな光は初めて見た」


 その夜、眠りにつきながら俺は思った。

 戦場で見た赤い光――憎しみの炎とはまったく違う。

 山で輝くという冷たい光は、果たして何なのか。

 だが妙に、胸の奥がざわついていた。

 穏やかな日々が続くと思っていたのに、どこかで新しい波が動き出している。


 翌朝。霧に包まれた村の門で、ミアとコルドが待っていた。

 「じゃあ、出発だな」

 荷馬が嘶き、霧の中を踏みしめる音が響く。

 ベル婆さんが門の前まで見送りに来て、手を振った。

 「気をつけておいで。何があっても帰ってきなさい」

 ミアが笑って応える。

 「うん! すぐ戻るよ!」


 森を抜ける朝の道。

 光が木々の間から差し込み、鳥の群れが飛び立つ。

 これまでの静かな日常から、一歩だけ外へ出る。

 背中の薬草袋が、いつもより少しだけ重く感じた。


 だが、覚悟はできていた。

 戦うためではない。守るために。

 この村の光を、そしてこの穏やかな日々を――。

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