第7話 夜明けの湯と月の花

 夜が深くなるにつれて、村全体がまるで呼吸をゆるめるように静まり返っていった。

 外では虫の音が細く響き、遠くの森でフクロウが鳴いている。

 いつものように薬草店の灯を落とし、寝台に横になったものの、目が冴えて眠れなかった。

 体は疲れているはずなのに、頭の奥でずっと昨日の光景が焼きついていた。

 子どもたちの笑い声、森に咲いた白いティルの花、そして――夜になると現れるという光の影。


 ミアの言っていた「森の灯り」が頭を離れない。

 ただの旅人ではなく、もしも魔物や盗賊の類なら、放っておくわけにもいかない。

 俺は毛布を跳ねのけ、竈の隅に置いたランプを手に取った。

 「どうせ眠れん。少しくらい夜風に当たってくるか」


 外は薄い霧が立ちこめ、空には霞んだ三日月が浮かんでいた。

 家々の明かりは消えており、村はひっそりと眠りの中にある。

 森の方角に目をやると、木々の間で確かに微かな光が動いていた。

 ミアの見間違いではなかった。

 俺は薬草袋と短刀を腰に下げ、静かに森へと歩き出した。


 足元には湿った葉と細かい枝。

 夜露が靴を濡らし、風が冷たく肌を撫でる。

 森の奥に入るにつれて、光は少しずつ強くなっていった。

 一瞬、魔石灯かと思ったが、それにしては揺れている。

 手にしたランプの火を落とし、音を殺して進む。


 やがて視界が開け、小さな岩場に出た。

 そこには、湯気を立てる湯溜りがあった。

 月の光を受けて淡く輝く泉――どうやら天然の温泉らしい。

 その縁に、淡い紫の光を放つ花が一面に咲いていた。

 まるで夜空が地上に降りてきたような美しさだった。


 「……これが、“月の花”か」

 森の古い伝承で耳にしたことがある。

 満ち欠けの夜にだけ咲き、光を吸って魔除けの力を持つ花。

 けれど、実際に見たのは初めてだった。

 肩の力が抜ける。思わず笑みがこぼれた。

 「危険な影じゃなくてよかった」


 湯の縁に腰を下ろすと、湯気があたりを包み込む。

 草と硫黄の混じる香りが心地よく、体の芯から緊張がほどけていく。

 そっと掌で湯をすくい、顔を洗った。

 冷たい夜風に頬を撫でられ、ようやく少しだけ眠気が浮かんできたそのとき――背後で木の枝が折れる音がした。


 反射的に身を翻し、短刀を構える。

 「ひゃっ……! わ、わ! ライル!?」

 月光を浴びて現れた影、それはミアだった。

 白い寝間着のまま、毛布を肩にかけた格好で、息を切らしている。

 「お前、何でここに」

 「ライル、いなくなったから! 森の灯りを見て、もしかしてって……」


 安堵と叱責が同時にこみ上げ、言葉が詰まった。

 「危ないから来るなと言ったろう」

 「でも、一人で行っちゃだめだって約束したでしょ!」

 強気な目に見つめられて、苦笑がもれる。確かに昨日そう言われた。

 「……まあ、結果としては助かったよ。見ろ、危ないものは何もいない。あるのは湯と花だけだ」

 ミアが辺りを見渡し、目を丸くした。

 「わあ……これが月の花……! 本で見たまんまだ……!」

 花々の淡い光に囲まれて、ミアの髪が銀のように輝いている。


 「この花、おばあちゃんが昔言ってた。夜に摘んで湯に浮かべると、怪我の跡が早く癒えるんだって」

 「確かに、薬効があるかもしれん。試してみるか」

 俺は花をいくつか摘み、湯へそっと落とした。

 すると花びらが湯にあたり、柔らかな光が広がった。

 冷たい森の中に、ぼんやりとした温もりの円が生まれる。


 「きれい……」

 ミアが小さく呟く。その頬に、湯から立ち昇る光が映り込んだ。

 しばし沈黙が流れる。

 水面に反射する月光が、まるで二つの月を作っているようだった。


 「ライル、ねえ」

 「ん?」

 「戦ってたころのあなたも、こんな風に夜を見てたの?」

 彼女の声には責める響きはなく、ただ純粋な興味だけが宿っていた。

 「……あのころは、夜なんて見てる余裕がなかった」

 「じゃあ、今は?」

 「今は、ようやく見えるようになった」

 そう言って笑うと、ミアも安心したように笑った。


 湯に腕を浸すと、傷跡のひとつがじんわりと温かくなる。

 古い傷だ。魔王との戦いの最後にもらったもの。

 その痛みさえ、薄れ始めていた。

 「ライル、手を出して。見て」

 ミアが花を一輪手に取り、俺の掌に乗せた。

 花弁がゆっくりと広がり、月光に溶ける。

 「森がね、『もう休んでいいよ』って言ってるみたい」

 その言葉に心がほどける。

 森に来てから、戦いの夢を何度も見た。

 だが今夜は、ようやくその夢が終わっていく気がした。


 「ありがとう、ミア」

 「なぁに。私はただ一緒にいたかっただけ」

 小さな笑声が、森の静けさに溶けて消えていく。


 夜が明け始めるころ、空の端に薄桃色の光が差した。

 鳥が囀り始め、森全体がゆっくりと目を覚ます気配を見せる。

 「ライル、見て。朝がくるよ」

 「本当だ……」

 夜明けの空を映した湯は、金と銀の光を混ぜ合わせたような色に染まっていた。

 俺たちはしばらく無言でそれを眺めた。


 村へ戻る道すがら、ミアが振り向いて笑った。

 「ね、また夜に行こう。今度はおばあちゃんも連れて」

 「ああ。あの花の湯なら、きっと喜ぶ」

 歩きながら、肩に冷たい朝露が落ちた。

 それでも心は温かかった。


 ――森は今日も、生きている。

 そして俺も、この村の一部として、静かに息をしている。

 夜明けの光が木々に差し込む中、俺はそう確信していた。

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