第5話 野兎を煮て、心をほぐす

 朝の森は冷たく、空気が澄んでいる。

 木々の葉の間を渡る風が、どこか甘い草の香りを運んでくる。

 目を開けると、窓の外でミアが籠を背負って跳ねるように森へ入っていくのが見えた。

 どうやら薬草採取の前に朝食の材料を探しに行ったらしい。

 この村の朝は忙しく、そして穏やかだ。

 昨日まで戦場の夢を見ていた頭も、外から聞こえる焚き火の音で現実に引き戻される。


 店の戸を開けると、ミアが既に戻ってきていた。

 籠の中には、丸々と太った野兎が二匹。

 「おはよう! 今日はシチューにしようと思って!」

 「おまえ、朝から元気だな」

 「だってお腹空いたもん。ライル、煮込み得意でしょ? 一緒に作ろうよ!」


 あの明るい声には逆らえない。

 抱えられた野兎を受け取り、厨房の竈に火を起こす。

 ベル婆さんは市場の後片付けで村の集会に出ており、今朝は店を俺とミアで任されていた。


 鍋に湯を張り、野兎の肉を湯にくぐらせて血抜きをする。

 ミアはその間に森から摘んできたハール草と香り葉を刻む。

 まるで色彩の祭りだ。緑と白、薄い橙の根、そして肉の赤。

 「この香り葉、甘いね」

 「昨日、市場で手に入れたんだ。煮込むと匂いがやさしくなるよ」

 「おばあちゃんが言ってた。森の料理は、薬草と相談して作るって」

 「相談?」

 「うん。“この草は誰を癒やしたいか、ちゃんと聞いてから鍋に入れなさい”ってね」

 ミアの言葉はどこか冗談めいているのに、不思議とその理念の温かさが伝わってくる。


 火が通り、肉の表面が白くなると、香草を投げ入れ、ゆっくりと蓋を閉じた。

 「これでしばらく待ちだな」

 「じゃあ、その間にお店の掃除しよう」

 ミアがほうきを手に取り、棚のほこりを払う。

 陽が射し込み、乾いた粉の粒が光の中で舞っている。

 静かな時間。

 薬草の香りと、煮込みの匂いが混ざりあい、心の中の硬い部分をやわらかくしていくようだった。


 「ライル、昨日の夜、外で誰か見た?」

 突然、ミアが小声で訊ねてきた。

 「誰か?」

 「うん、森のはずれの方に、灯りが見えたの。ほら、あの丘の先。夜中なのに、明かりが動いてた」

 「旅人か……あるいは獣かな」

 「でも、少し怖くって。森犬より変な気配がしたの」

 真剣な表情に、ふと胸騒ぎが走る。

 この村は平和だが、森の奥にはいくつかの廃村や廃坑があると聞いた。魔物が巣食ってもおかしくはない。

 「心配するな。明日の朝、俺が見てくる。夜の森は危険だ」

 「……うん。でも一人で行っちゃだめだよ」

 「わかってる」

 ミアの尻尾が不安げに揺れた。


 鍋の蓋を開けると、湯気がほわっと立ち昇る。

 肉の表面に浮かぶ油が金色に光り、香草が湯気の中でゆっくり揺れている。

 「もう少し塩を。……味見をしてみろ」

 ミアが匙を取り、口をすぼめて吹き、恐る恐る舐める。

 「……おいしい!」

 その一言で、胸のあたりがじんわりと温かくなった。

 昔、戦友と囲んだ焚き火の夜をふと思い出す。

 血と灰の匂いの中で食べた硬い干し肉。それでも、仲間の笑い声はあった。

 だが、今目の前にあるのはそれとはまるで違う。

 命を奪うためでなく、生かすための食事。

 その違いが、こんなにも世界の色を変えるものとは知らなかった。


 昼の鐘が鳴る前、店の扉が静かに開いた。

 現れたのは、腰をかがめた老獣人の男だった。

 体を支える杖の先が震えており、息も荒い。

 「ベルのところに……咳止めの薬は、あるかね」

 「どうした、そんなに苦しそうに」

 「孫が、ずっと咳が止まらん。市で風に当たったのか……」

 ミアが慌てて棚を探すが、いつも使っている薬草瓶は空になっていた。

 「昨日ぜんぶ売っちゃった……」

 俺は鍋の脇に残っていたハール草の束を見やる。

 あれなら喉の通りを良くする。

 「これを煮出して、蜂蜜を少し混ぜて飲ませろ。苦味はあるが、すぐ効く」

 「できるのか、そんなことで?」

 「効くさ。信じてやってくれ」

 男は感謝の言葉を残し、ゆっくりと去っていった。


 その背中を見送りながら、ミアがぽつりと呟く。

 「ねえライル。あんた、本当はどんな旅をしてきたの?」

 その問いに、しばらく言葉が出なかった。

 過去を知られたくないというよりも、語る覚悟がまだなかった。

 だが、ミアのまっすぐな瞳に、少しずつ言葉がこぼれた。

 「……昔、たくさんの人を救おうとして、たくさんの人を斬った。

  最後に、何も救えなくなって、逃げたんだ」

 「……そっか」

 ミアはそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに鍋をかき混ぜる。

 木の匙が鍋の底をこすり、ことことと音を立てる。

 「でもライル、今は違うよね?」

 「ああ、違う。今は……誰かを生かすためにここにいる」

 そう言いながら、自分の中で何かが少しずつ変わっていくのを感じた。

 重く閉ざしていた心の蓋が、わずかに開いたような感覚。


 夕方、老獣人が再びやってきた。

 「ありがとうよ、ライルさん。あの煎じ薬、孫に効いた。もう咳をしておらん」

 「そうか、それはよかった」

 「これを……少ないが、礼だ」

 男が手渡したのは、布に包まれた燻製の肉とパンだった。

 「こりゃあ、市でもなかなか手に入らん代物だよ」

 そう言って彼は笑いながら帰っていった。


 窓の外は茜に染まり、森の影が長く伸びている。

 シチューの残りを皿に盛り、二人で静かに食べた。

 スプーンを動かすたびに、鍋底で香草が揺れる。

 「ねえライル」

 「なんだ」

 「森の灯りの話、やっぱり気になるから、明日私も行く」

 「危ないぞ」

 「平気。森の道は、私のほうが詳しいよ」

 強情な笑顔。まるで昔の誰かを思い出す。


 焚き火の炎がパチパチと音を立てた。

 野兎の香草シチューは、心をゆるやかに溶かしていく。

 今日がこんな一日になるなんて、王都にいたころは想像もできなかった。

 戦いの代わりに、森の香りと人の笑顔に囲まれている。

 それだけで胸が満たされていくのを感じながら、俺はスプーンを置いた。


 夕闇に沈む森の奥。

 あの灯りの正体はまだわからない。

 けれど、俺の中には恐れよりも確かな決意があった。

 ――明日、ミアと一緒に確かめよう。


 風が窓を揺らし、香草の香りが優しく鼻をくすぐった。

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