第4話 初めての市場と香草パン

 村の朝は早い。

 空が白みはじめるころには、通りのあちこちで火が起こされ、パンを焼く香ばしい匂いが漂ってくる。

 ミアの尻尾が煙の向こうでせわしなく揺れていた。

 「ライル、今日こそ市場の外に出るよ!」

 「外? 市場は村の中央じゃないのか?」

 「うん、今日は月に一度の“森辺市(もりべいち)”。周りの集落から商人が集まるんだよ」


 森辺市は、ルナフィアの村人にとってちょっとした祭のようなものらしい。

 普段見かけない珍しい品が並び、旅商人や行商の獣人たちがテントを張って夜まで賑わう。

 ミアは朝から浮き足立っていた。

 「パン屋のシェナさんが、新しい香草パンを試すんだって。ねえ、食べようよ!」

 「ほう……美味いのか?」

 「最高だよ! ベルおばあちゃんも絶対好きって言ってた!」


 薬草店の荷車を押しながら、俺たちは森の北端に設けられた広場へと向かった。

 道沿いでは、すでに露店の準備が始まっている。野菜、果実、毛皮、手作りの装飾品。

 その中に混じって、草染めされた布を干している獣人の職人の姿もある。

 「ルナフィアは本当に多種の獣人がいるんだな」

 「うん。みんな森のどこかで暮らしてて、この市の日だけ集まるの」

 「仲がいいんだな」

 「そういうわけでもないけど、食べ物と薬草のためなら協力するんだよ。森では一人より、二人がお得なの!」

 ミアが言って笑う。その無邪気さに思わず肩の力が抜けた。


 広場につくと、朝霧の中に色とりどりのテントが立ち並んでいた。

 小型の竈に火が入り、金属音や獣人たちの掛け声が混じる。

 ベル婆さんが荷を降ろし、俺とミアで薬草束を並べる。

 棚板の上にドライナやヒルリカ、乾燥果実と瓶詰めの香草粉。

 「久しぶりの市だ。どれだけ売れるか楽しみだねぇ」とベル婆さんは笑った。


 周囲を見渡していると、香ばしい油の匂いが風に乗ってきた。

 振り向くと、パン屋らしきテントで狐の耳をした女性獣人が生地をこねている。

 「ミア! 来てたのね! お手伝いしてくれる?」

 「うん!」

 「ライルもおいでよ! 焼きたてパン、試作品だよ!」

 シェナと呼ばれたその女性は、明るい笑顔で俺を手招きした。

 彼女はミアの友人らしく、ベル婆さんからも薬草をよく仕入れているらしい。


 近づくと、布の台の上に緑色の粉がまぶされた生地が並んでいた。

 「これは……ハール草か?」

 「当たり!」シェナが嬉しそうに耳をぴくりと動かす。

 「苦味を抑えて、香りを残せる配合をミアと考えたの。焼くとすっごく良い香りがするよ」

 試しに一つもらうと、表面がほんのり焦げ、指先まで芳しい匂いが移る。

 かじった瞬間、ふんわりとした生地の甘みとハーブの爽やかさが広がった。

 「うまいな……まるで、森の息を食べてるみたいだ」

 「でしょー!」

 ミアが両手を腰に当て、誇らしげに胸を張る。

 「これが“香草パン”。シェナさんはこの村で一番のパン作りだよ。旅商人にも人気でね、すぐ売り切れちゃうの」


 客足が増えるにつれて、市はどんどん賑やかになった。

 笛を吹く子どもたち、異国の言葉を話す商人、皮細工師が腕輪を売り歩く。

 俺が持ち込んだ乾燥薬草も売れ行きがよく、昼過ぎには半分が捌けた。

 ミアは間を見て他の屋台を巡り、小瓶や珍しい葉を持って戻ってくる。

「ねえねえ、これ見て! 光る砂草の種、夜に振ると光るんだって!」

「おもちゃのようだな。薬効はあるのか?」

「ないけど、きれいでしょ?」

ミアが目を輝かせて笑う。その笑顔を見ていると、この村の空気がどれだけ貴重なのか思い知らされる。


 昼下がり、パン屋の前に小さな騒ぎが起きた。

 一人の獣人の少年がパンを手に、逃げるように走り去っていく。

 シェナが慌てて追いかけようとしたが、人ごみに紛れて見失った。

 「待ちなさい! あの子……」

 「知ってるのか?」と俺は問う。

 「うん、森端の集落の子よ。前にも何度か、食べ物を盗もうとして……」

 ミアが顔を曇らせた。

 「お父さんが病気なんだ。けど薬を買うお金がなくて」


 俺は短く息をつき、ベル婆さんのもとへ戻って薬草袋を取った。

 「婆さん、この“セール草”をいくらか売らずに残してたな」

 「腹の薬かい? どうする気だい?」

 「子どもに渡してくる」

 ベル婆さんは一瞬だけ目を細め、それから静かに頷いた。

 「あの子の家は森端の下り道を抜けた先だよ。気をつけな。犬族の縄張りがある」


 木々の間を抜けると、村の賑わいが遠のいていく。

 小川の音を頼りに進むと、小屋が見えた。屋根は崩れ、煙の出ていない煙突が寂しげに立っている。

 扉を叩くと、しばらくして小さな影が出てきた。

 「……パン屋の人?」

 「そうだ。だが、叱りに来たわけじゃない。これを届けにきた」

 袋から薬草の小包を取り出す。

 「煎じて飲むといい。腹の痛みに効く」

 少年の瞳が見開かれる。

 「どうして……」

 「誰かが苦しむのを見たくないからだ」


 その言葉に、自分でも静かな驚きを覚えた。

 昔は、それを理由に剣を振るっていた。

 だが今は、草を煮出し、香りを分けることで人を救える。

 力ではなく、癒やすことで。

 少年は泣きそうな笑顔で薬を受け取った。

 「ありがとう……お父さん、きっとよくなる!」

 俺は頷き、村へ戻った。


 日が暮れるころ、森辺市はさらに賑やかになっていた。

 ランプの光が並び、音楽が響く。

 シェナがパンを焼きながら俺を見つけ、笑顔で手を振った。

 「さっきの子ね、パン屋に来たの。謝って、父親の分までパンを買ってくれたわ」

 「そうか、よかった」

 香草パンの匂いが風に乗って流れてくる。

 ミアがパンを抱えて駆け寄った。

 「ほら! 一番焼き! 今日のお礼だよ!」

 差し出されたパンから立つ湯気が、夜の冷えた空気の中でほのかにきらめく。


 噛むたびに広がる香草の香り。

 その優しい苦味が、まるで俺の胸のざらつきを洗い流していくようだった。

 森辺市の灯がゆらめく広場の片隅で、俺は静かに息を吐いた。

 戦わずとも、人を救えるという実感が、少しずつ確かな形になりつつあった。

 夜空には満ちかけの月。

 そこから降り注ぐ光に照らされながら、俺はふと思う。


 ――この村の暮らしは、まるで魔法のようだな。

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