第3話 古い薬草棚と獣人の娘

 翌朝、まだ霧の残る時間に目が覚めた。

 薬草店の裏庭では、ミアがすでに動き回っていた。

 小さな手で木の棚を引きずり、古びた瓶を並べ替えている。

 寝ぼけ眼をこすりながら外に出ると、冷えた空気とハーブの香りが肺を満たした。


 「おはよう、ライル! 棚が壊れちゃったから、直してるの」

 ミアの尻尾がぱたぱたと揺れる。

 板の継ぎ目が緩んで、瓶を置くと傾いている。木材には年月の染みがあり、釘も錆びていた。

 「よくまぁ、今まで持っていたな」

 そう言って俺は袖をまくる。便利な道具は何もないが、手に馴染むナイフと森の枝がある。

 「ちょっと貸してみろ」


 古い釘を抜き、枝から新しい支え木を削り出す。

 森の木は柔らかく、乾燥させると軽い。

 ミアが興味深そうに見ている。

 「ライルって器用だね、なんでもできる」

 「いや、旅をしていると壊れたものを直すくらいは覚える」

 「旅人って、みんなそうなの?」

 「いや、中には直せず放り出すやつも多いな」

 俺が冗談めかしていうと、ミアは笑った。

 「じゃあ私は、壊れたらすぐライルを呼ぶね!」

 それはまるで「村に定着して当然」と言わんばかりの調子で、思わず苦笑する。


 棚を直し終えると、ミアが嬉しそうに瓶を並べ始めた。

 透明な瓶の中に乾いた草が詰まっている。形も色も違う。

 赤い粒の実、黒ずんだ根、細い茎。

 その並ぶ姿を見ながら、俺は何となく穏やかな気持ちになった。


 「この棚、祖母の代から使ってたんだって」

 ミアは手を止め、そっと木目を撫でた。

 指先に染みついた古い色が、朝の光の中で静かに浮かび上がる。

 「ベルおばあちゃんは、ずっとこの村で薬を作ってる。だからこの棚、昔からの“村の命の棚”なんだよ」

 「命の棚、か」

 「うん。薬草って、森の命を分けてもらってるんだもん」

 その言葉が、不思議と胸に残った。


 昼になるころ、ベル婆さんが店の奥から出てきた。

 「棚を直したのかい? よくやったねぇ」

 「壊れたままだと、落ちそうでしたから」

 「昔のもんは味があるが、そこが曲者でね。だが、お前さんの力仕事があれば安心だ」

 ベル婆さんが笑い、奥のテーブルに大きな鍋を置いた。

 中には煮込みスープ。野菜と薬草、少しの肉がぐつぐつと音を立てている。

 「疲れただろう、昼飯にしな」


 ミアと並んで椅子に腰を下ろす。

 湯気の向こうに見えるベル婆さんの手は皺だらけだが、動きは確かだった。

 スプーンを口に運ぶと、柔らかな苦味と甘味が舌に広がる。薬草の匂いも料理に馴染んで、心に染みる味だった。

 「うまいな」

 「お前さん、素直でいいねぇ」

 ベル婆さんは笑いながら、俺に木の匙を渡した。

 「ミアが言っていたよ。森犬を追い払ったんだって?」

 「偶然です。運がよかっただけですよ」

「運も技のうちだ。それに森に嫌われてない証拠だね」


 その言葉の意味を尋ねる前に、ベル婆さんは湯気を見つめながら静かに言った。

 「森はね、心の濁った者には草を見せてくれない。薬草を見分け、命を分けてもらえるのは、森に受け入れられた証だよ」

 「森に、受け入れられる……」

 呟く俺に、ミアが笑いかけた。

 「じゃあライルはもう、森の仲間だね」

 あっけらかんとした口調だが、不思議とその言葉が嬉しかった。


 午後からは棚の整理の続き。

 古い瓶の中には、風化して粉になった草もある。

 ベル婆さんは「薬効はないが、匂いで邪気払いになる」と言って、戸棚の奥へしまった。

 俺は粉を掃き集めながら尋ねた。

 「ベル婆さん、これは何の薬だったんです?」

 「“眠り草”さ。昔、戦争続きの時代に、兵士たちの心を落ち着かせるために使った」

 「戦争か……」

 胸の奥で、かすかに痛みが走る。

 ベル婆さんはそれを見逃さなかった。

 「お前さん、何かを背負ってる顔をしてる。けど、この村では重荷を降ろしていいんだよ」

 その穏やかな声に、思わず俯いた。

 答える代わりに、俺は壊れた瓶の欠片を拾って棚の上に並べた。

 陽の光が差し込み、欠片の中に色が反射する。


 夕方、村の鐘が鳴った。市場が開かれる合図だ。

 ベル婆さんが荷をまとめ、俺とミアを振り返る。

 「ライル、悪いが荷車を引くのを手伝っておくれ」

 「もちろん」

 薬草束や瓶、乾燥果実などを木箱に詰めて積む。

 市場は村の中央にあり、人や獣人たちが行き交っていた。

 屋台の並ぶ通りには、焼き立てのパンや果実酒の香りが漂い、子どもたちが走り回っていた。

 ミアが誇らしげに言う。

 「この村の市は小さいけど、楽しいよ。ベルおばあちゃんの薬草はいつも人気だもん」


 店を出して並べていると、老犬の耳を持つ獣人がやってきた。

 「おや、今日は新入りか? 人間じゃねぇか」

 驚きと好奇の混ざった視線を向けてくる。

 「おおかた、この森で道に迷ったんだろう」

 俺が軽く笑って頷くと、その獣人は手を差し出した。

 「まあ、よそ者でも薬草を売る腕があるなら歓迎だ。ここは腹が減れば皆で分ける村だ」

 その言葉が妙に心地よかった。

 噂話や蔑みの目ではなく、ただの仲間として認められる感覚。

 むかし王都で受けた歓声よりも、ずっと静かで真実味があった。


 夜、帰路につく道の途中で、ミアが口を開いた。

 「ねえライル。あした、森の湖に行かない? 春花が咲くんだ。おばあちゃんが言ってたの、薬草になる花だって」

 「湖か。いいな、見てみたい」

 ミアは嬉しそうに尻尾を振った。

 「約束だよ」


 村の家々の灯がまたたく。

 その光が霧の中で揺れ、まるで森に咲く花のようだった。

 俺は立ち止まり、振り返る。

 この村で、自分にもまだ役目があるのかもしれない――そう思えた。

 剣を置いた手に、今は薬草と温かい灯りがある。

 その小さな重みを感じながら、静かに家の扉を閉めた。

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