第2話 森を抜けて、村の灯

 森の夜は静かだ。

 虫の声が木々の間を渡り、月の光が細い筋となって薬草店の床に差し込む。

 この穏やかさに身を浸らせながら、俺は乾いた草を瓶に詰め、慎重に栓をした。


 ミアの祖母――ベル婆さんは、腰の曲がった獣人の女性で、村でも古くから薬草屋を営んでいるらしい。

 昼は店番をしながら、村人の病や怪我の相談を受ける。木の椅子に腰かけたベル婆さんのもとには、今日も数人の獣人たちが訪れていた。

 痒み止めがほしい、指を切った、子どもが熱を出した。

 どれも大きな怪我ではないが、村に医者はいない。薬草と知恵が全てだ。


 「ライル、お前さん、もう立派な手つきじゃないか」

 ベル婆さんは俺の手元を見ながら感心したように言う。

 「遠いところで、こういう仕事でもしていたのかい?」

 「似たようなことなら、多少は」

 戦場で包帯を巻き、傷を塞ぐために薬草をすり潰した日々が思い出された。しかし、そんな過去をここに置いていくためにも、細かい説明はしなかった。

 ベル婆さんは深く詮索せず、にやりと笑った。

 「口は重い方がいい。薬草屋は森と同じで、黙っているほうが人が寄ってくるんだ」


 午後、森に薬草を採りに行くことになった。

 ミアが軽い籠を背負い、俺は腰袋と短いナイフを持った。

 陽の光が枝の隙間からこぼれ、苔むした岩の間を渡っていく。

 木々の合間には、色とりどりの花が咲いていた。淡い紫、緑がかった黄、そして風に揺れる白い穂。

 ミアが指さして説明する。

 「あれがヒルリカ草。煮ると苦いけど、腹の薬になるんだよ」

 「こっちはドライナ。葉を乾かして粉にすると止血薬」

 小さな声で、一生懸命覚えようと唱える。彼女は俺を見上げ、くすっと笑う。

 「ライルって真面目だね」

 「覚えることは得意なんだ」

 「うん、でも無理しないでね。この森、時々ちょっと意地悪だから」


 その言葉の直後、茂みの奥から低い唸り声がした。

 ミアがぴたりと動きを止める。尻尾の毛が逆立っている。

 「……森犬だ」

 姿を現したのは、狼に似た魔獣だった。灰色の毛並みを逆立て、赤い目でこちらをにらんでいる。

 森の主と呼ばれる野生の群れ。普段は人間や獣人の領域に入ってこないが、空腹か何かの拍子で荒れることもある。


 俺は無意識に腰に手を伸ばした。だが、そこに剣はない。

 その代わりに握っていたのは、薬草採り用のナイフ。

 ほんの短い刃。武器というより道具だ。

 森犬が歯をむいて迫ってくる。体が勝手に動きかけ、昔の癖で前に出そうになる――だが、足が止まった。

 戦わないと誓ったはずだ。

 ミアの顔が浮かぶ。その横にある籠の中の草、村の灯。守るために剣を振るうのではなく、別の方法を――。


 「ミア、俺の合図で石を投げろ」

 「え? うん!」

 俺は地面にしゃがみ込み、ポーチの中から粉末を取り出した。乾燥させたドライナと香木の粉。

 火打ち石で火花を散らし、その煙を森犬の前に吹きかける。

 鼻を刺激する独特の匂いに、森犬が唸り声を上げて後ずさる。

 その隙にミアが石を放る。ガツンと頭上の枝を鳴らす音に、森犬は驚いて森の奥へと逃げていった。


 静寂が戻る。

 ミアが尻尾を下げたまま俺を見つめる。

 「怖かった……でも、助かったよ」

 「よかった。ああいうとき、匂いを使えば大体逃げてくれる」

 「それ、ドライナの粉? すごい、そんな使い方があるんだね!」

 「戦場で、似たような知恵を学んだ」

 ミアがびっくりしたように目を丸くする。その表情を見て、俺は微笑んだ。

 「でも今は、森を守るための知恵として使うことにするさ」

 ミアは嬉しそうに頷いた。

 「うん、それがいい。ライル、きっとこの村に来たのは偶然じゃないね」


 夕暮れ。森を抜けると、村には柔らかな灯が点っていた。

 煙突から上がる煙、家々の窓からこぼれる橙の光。

 遠くから、子どもたちの笑い声と食器の音が聞こえる。

 ベル婆さんの店の前では、猫のような獣人の少年が咳をしていた。

 母親が心配そうに肩を抱いている。ベル婆さんが俺を見て、すぐに声をかけた。

 「ライル、その籠の中にドライナがあるかい?」

 「ある」

 「粉にして蜂蜜と混ぜろ。煮て飲ませるんだ。子の喉にはちょうどいい」


 言われるままに作業を進める。

 乾いた草を砕き、香りの強い蜜と合わせる。弱火で煮ると、湯気に柔らかい甘い香りが立ちのぼった。

 少年に一口飲ませると、瞳が少し潤んで咳が和らぐ。

 母親が深く頭を下げた。

 「ありがとう。本当に助かりました」

 「礼は要らない。薬が効いたのならそれでいい」

 そう口にしながら、胸の奥がほんのり温かくなった。

 剣で命を救うよりも静かで穏やかな仕事だ。

 心に血の匂いを残さない救いが、確かにここにあった。


 夜、薬草店の灯りを落とす。

 今日の出来事を思い返しながら、窓の外を見つめた。

 遠くの森に、また一匹の森犬が吠える声が聞こえる。

 けれどその声は、もう敵の咆哮には聞こえなかった。

 この土地に生きるものとして、ただの息づかいのように聞こえた。


 ミアが毛布を抱えて入ってくる。

 「ライル、もう寝ちゃう?」

「少しだけ、今日の反省をしていたところだ」

「えらいなあ。でも、あしたはもっと楽しい日になるよ。森の奥にね、春花の群生地があるの。すっごくきれいなんだから!」

「楽しみにしておくよ」

 ミアが笑いながら火を落とし、音もなく扉を閉めた。


 月明かりの下、俺は静かに息を吐いた。

 剣を捨てても、人を守る術はまだある。

 そしてこの村には、守りたい灯がある。

 そう思いながら、夜の静けさに包まれて目を閉じた。

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