第一章:交差する方向 -Intersecting Vectors-
第5話
翌日、12月13日。
大学に休職届を提出すると、手続きは異様なほど円滑に終わった。
師走の
外に出ると、御影は無意識にポケットへ手を入れる。指先に触れた小型SSDの硬質な感触が、昨夜の余韻を鮮明に呼び起こした。腹の底でくすぶる熱はまだ冷めず、冷たい予感がじわじわと膨らんでくる。
校内を静かに歩き出す。周囲を見回せば、朝の授業が始まったばかりなのだろう。生徒の姿は疎らだった。木々はすっかり葉を失い、枝だけが冷えた風にかすかに揺れている。
校門を抜け、歩道に降り立つと、背筋を撫でるような気配を感じて思わず振り返った。
「――御影継人さんで、よろしいですね?」
視線を上げると、淡い陽光を背にした黒いコートを羽織った灰色のスーツ姿の男が立っていた。年齢は四十代半ばほどに見える。白髪混じりの髪が目立ち、目は周囲の寒さとは違う冷たさで御影を射抜いた。
「少し、お時間いただけますか」
差し出された警察手帳の名前が、胸の奥でざらりと引っかかった。
捜査一課
「……捜査一課の刑事さんが、何の用ですか?」
肩書きの響きが、理由のわからない緊張を体の奥に広げた。相手は殺人や誘拐を扱う捜査一課だ。触れられたくない記憶の縁をなぞられるような、気分の悪さが込み上げる。
だが、御影のような反応には慣れているのだろう。藤原は気を悪くした様子もなく、淡々と続けた。
「あー、実はですね。率直に申し上げて、珠代さんの件について再調査しています」
珠代の名が、冷たいものとなって脳裏をかすめた。再調査。どういうことだ。彼女の死に、刑事が絡む理由があるのか。
御影が藤原の表情を窺うと、彼は柔和な笑みを浮かべていた。
「どうですか? ここで立ち話もなんですし、珈琲でも奢りますよ」
その提案と同時に、藤原は歩道の先を指した。指差す先には、大学の向かいに佇む小さな喫茶店オヴィスがある。古びたレンガ造りの建物で、ガラス越しに灯る橙色の光が、冬の曇天の下でひときわ目立っていた。
御影が無言で頷くと、藤原は一歩先を歩き始めた。冷たい空気が肺を満たすたび、なぜか胸の奥に不安がじわりと広がる。藤原の存在が、ただの警察官以上のものに感じられた。
二人は言葉もなく店内へ入る。木製の扉を押すと、カランカランとドアベルの音が鳴った。ほのかに漂うコーヒーの香りと暖かい空気が、外の寒さを遮断する。
店内は静かで、客はまばらだ。朝の混雑は終わったらしい。
藤原はカウンター越しにマスターへコーヒーを二つ注文すると、窓際の席を示した。促されるまま御影は歩を進め、先に腰を下ろす。
「突然、すみませんね。お忙しかったでしょう?」
対面に腰を下ろしながら、藤原は軽く笑みを浮かべた。どこか貼り付けられたような、御影を探るような笑みだ。
「いえ、別に」
居心地の悪さを感じつつも御影が短く答えれば、藤原は首を傾げる。
「またまた、御謙遜を。なんでも人工知能――AIの研究で大変忙しくしていらっしゃるとか、なんとか」
人懐っこい笑顔の奥に、刑事特有の鋭い目つきが覗いていた。目線の先にひそむ意図を感じ取り、御影の喉元に冷たい感覚が走る。痛くもない腹を探られるような不快感が込み上げ、そっと視線を逸らした。
「……随分と、調べられたようですね」
「お気を悪くなさらないで下さい。なにぶん仕事柄と申しますか、性分ですので」
藤原の声は淡々としているが、その表情はどこか楽しんでいるようにも見えた。御影はその態度がますます不快だったが、表情には出さずに黙って頷く。
「聞き及んだところによると、何でも最近のAIは非常に精巧なのだとかなんとか。私のような古い人間にはその凄さが到底、理解できませんが、学会では『まるで人間のようだ』と話題になっているらしいじゃないですか」
御影のことを調べ上げているのが手に取るようにわかる。それが仕事だと理解しつつも、やはり良い気分ではない。
「……ところで、ご用件は何でしょうか?」
「あ、これは失敬。忙しいのについつい、すみません。悪い癖でしてね、よくかみさんにも怒られるんですよ」
視線を逸らす事もなく藤原は飄々とした態度のまま、淡々と言葉を続けた。
「御影さんは、三年前の珠代さんの件を覚えていらっしゃいますか?」
「……忘れる訳がありませんよ。友人が何の前触れもなく突然、亡くなったんです」
低く漏れた声に、藤原は沈痛な面持ちで頷いた。視線をテーブルへ落とし、かすかに目を伏せる。
「心中お察しします。しかしながら、こちらも仕事でしてね」
「……どういう意味ですか?」
「いえ、ね。既にご存知かと思いますが――」
藤原が言葉を選ぶように間を置いたその瞬間、マスターが静かに二つのコーヒーを置いた。湯気が立ち、香りが鼻をくすぐる。
御影は舌を湿らせるように珈琲を一口含んだ。苦味が喉に落ちていき、冷えた内側がわずかに温まる。
その様子を眺めていた藤原が、天井に視線を上げてから再び口を開いた。
「……率直に言いますと、珠代さんが亡くなった経緯には不明瞭な点がいくつかあります」
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