第3話


「……冗談、で言ってる訳じゃないんだな?」


 御影の声はひどく乾いていた。目の前の戸羽は笑いもしない。ただ静かに、揺らぎのない視線を返してくる。


「冗句は、俺が一番苦手な分野だ。お前も知っているだろ?」


 知っていた。だからこそ、御影は余計に笑えなかった。

 戸羽の言葉には誤魔化しも虚勢もない。理性という皮を被ったまま、その下で狂気がゆっくり呼吸している。その異様さを自覚した瞬間、御影の胸は冷たさの形をした手にゆっくり掴まれたように強張った。


 世界がどこかで軋んだ気がした。

 カウンターの灯りがわずかに揺れ、二人の影を細長く伸ばす。戸羽の指先で転がる小さなデータディスクは、まるでという重みを帯びていた。


「お前、自分が何を言ってるのか、理解してるのか?」


 御影の声には怒りより、はっきりとした恐れの色が滲む。

 戸羽は淡々と頷いた。その落ち着きは、信念そのものが骨格となり、そこへ血肉が宿っているような静謐さだった。


「しているさ。最近のAI技術はすごいらしいじゃないか。まるで人間と会話しているみたいだって、学会でも騒いでたぞ」


 氷が静かに沈む音を聞きながら、御影の背筋を汗がゆっくり伝った。


「だから、俺は閃いたわけだ。限りなく人間に近い知能を持てるなら――その人物にこともできるんじゃないか、ってな」


 戸羽の目は狂気ではなく、希望に満ちていた。その瞳を見た瞬間、御影の理性がひどく揺さぶられ、思考が白く凍りついた。それは科学ではなく、信仰の光だった。


「……無理だ。現実的にいって、有り得ない。お前はAIを人間のようだと捉えているが、いいか。AIは所詮、ただの計算機。機械に過ぎないんだ」


 御影は語気を強めた。それは理性の言葉というよりも、祈りに近かった。

 だが、戸羽は薄く笑う。どこかでこの反応を待っていたように。


「妙な事を言うな、御影。だったら、お前は何で研究をしているんだ?」

「……幼少の頃に描いた夢がその分野にあった。同じことを言い出す奴がいた。ただ、それだけだ」


 名前を避け、当たり障りない返答をすれば、戸羽は小首を傾げるが、己の中で納得があったのだろう。遅れて首肯すると、酒を呷った。

 言葉には出さなかったが、この分野を続けている意味は御影の中では上手く処理できていない。いや、一生涯きっと解決しない難問でもあった。なにせ問う相手が、もういないのだから。


「お前は『テセウスの船』を知ってるか?」


 そんな事を考えていると、突拍子もない問いが割り込んでくる。

 その意味に至る前に、御影の口は言葉を繋げていた。


「……船の部品を少しずつ取り替えていって、最後には全部が新しいものに変わる、ってやつか」

「そうだ。全部が新しくなってもなお、それをという思考実験だ」


 戸羽の声は低く、どこか恍惚としていた。

 酒をゆっくり呷り、静かに息を吐く。


「なあ、御影。俺は部品が変わっても、記憶が、形が、名前が残っているなら――それは同じ存在なんじゃないかと思うんだ」

「……それと珠代がどう関係ある」


 戸羽はグラスを見つめたまま、静かに呟いた。


「珠代の身体はもうない。でも、記憶は、声は、仕草は――記録として残っている。なら、部品を取り替えるように、魂も再構築できるはずだ。という存在を構成する情報を、すべて組み直せばそれはだ」


 御影は言葉を失った。戸羽の声には狂気はなく、確信だけがあった。

 それが、もっとも恐ろしかった。


「お前も俺と同じ科学者だ。わかるだろ?」


 戸羽の声音には、懇願も熱もない。ただ淡々と、論理を示すだけの温度だけがあった。

 御影は口を開きかけ、閉じた。思考が一瞬、白く途切れる。やがてゆっくり息を吐いた。


「……一度、お前の話を聞かせてくれ」


 戸羽の唇がかすかに歪んだ。満足げでありながら、どこか壊れた笑み。人間らしさから少しだけずれた曲線だった。


「ここに、珠代の記録の一部がある」


 手の中で弄んでいた小型SSDを、戸羽はカウンターにそっと置いた。照明が金属に冷たい光を落とす。内部の情報そのものが、無音で脈打っているようだった。


「俺から見た珠代だけじゃない。それじゃ意味がない。

 他者が観測した珠代――日記、SNS、発言、写真、音声、視線のログ。集められるだけ集めている。そこに、お前の記録と技術が加われば、ようやく珠代の片鱗が見える」


 肌がじりりと焼けるように痛んだ。御影は無意識にグラスを握りしめる。氷が軋む音が沈黙を細く裂いた。


「情報が揃えば、あとは形にするだけだ。……そうだろ、御影?」


 答えられなかった。理屈としては正しい。だが、それが正しい選択とは限らない。

 御影は努めて冷静を装い、小さく首を振る。


「ソフトウェアはそうだとして……身体の方は、どうする気なんだ?」


 言った直後、野暮な質問だったと後悔が走る。

 案の定、戸羽は待っていたかのように口角を吊り上げた。


「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ、御影継人。お前がソフトの天才なら、俺はハードの天才だ」


 笑みは薄い。血色の抜けた唇に、照明の青白い光だけが貼りついている。

 カウンターの影が戸羽の横顔を斜めに切り分けるたび、骨格の線だけが冷たく際立った。

 酒の匂いが漂う中で、どこか金属的な乾いた臭いがかすかに混じり、それが不穏な感覚を呼び起こす。

 その違和感が、御影の注意を引いた瞬間、戸羽の声が再び響いた。


「――人工皮膚って、知ってるか?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る