第2話
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扉を開けると、学生時代に通った馴染みのバーの匂いが、どこか懐かしく感じられた。
寡黙なマスター、木のカウンター、古いジャズのレコード、柔らかい照明の温もり。懐かしい空気がそのまま残っている。まるで写真から切り取ったようだ。
御影の視線はすぐに戸羽を捉えた。
カウンターの端に腰かけた彼は、以前の面影を残しつつも、どこか影の薄い男になっていた。目には覇気がなく、肩はわずかに落ちている。笑みを浮かべても、その奥に揺らぎが見える。
「久しぶりだな、御影」
戸羽は力なく手を上げた。声もかすかに震えている。その震えに、御影の胸の奥がざわついた。
三年ぶりの再会だ。表面は明るさを装っているが、その内側に沈んでいるものは、葬儀のあの日から何ひとつ変わっていないのだと御影は悟った。
「……やつれたな、戸羽」
ため息をつきながらカウンターに腰を下ろす。戸羽は微笑んだが、その輪郭はどこかぼやけて見えた。
「まあな。言ったろ? 忙しくしていたってな」
注文を告げると、戸羽のグラスが目に入る。液体は半分ほど減っているが、どれだけ前から飲んでいたのかはわからない。
御影は息をつき、視線を落としたまま少し間を置く。戸羽もまた何かを言い出せずにいるようで、視線をグラスに落としたまま動かない。
店内に流れるジャズが、二人の間に低く静かなリズムを刻む。その沈黙の中、御影は三年という空白の重さを実感した。変わらないものと、変わってしまったもの。その両方が胸にのしかかる。
ほどなくして注文した酒が届いた。ウォッカのロックだ。
乾杯をする気分でもなく、御影はそのままグラスを傾ける。カラン、と氷が小さく揺れ、舌の上を冷たく転がった。喉を焼く熱が過ぎると、乾き切った体の奥まで沁みていく。脳の奥が少しだけ覚醒するような感覚があった。
「御影は、相変わらずの飲み方だな」
「コストパフォーマンスを考えると、これが一番良いんだ」
「まあ、わかるよ。金のない時代には世話になったしな」
言いながら戸羽は小皿のチョコレートへと手を伸ばす。この店のサービスの品だ。
御影も一粒取り、口に含む。ほのかな苦みが舌に広がり、その後を追うように酒を呷って息を吐いた。
思考が少しぼやけ、低く流れるジャズが妙に心地よくなる。
横目で戸羽をうかがうと、彼の視線はどこか遠く、陽炎のように揺れていた。その小さな乱れが、御影の胸の奥を再びざわつかせる。
「……珠代は、そんな俺たちに目を眇めていたっけな」
その名が戸羽の口から出た瞬間、御影は息を呑んだ。だが、何気ないふりをしてゆっくり頷く。
「あ、ああ。そうだったな」
「どうしたんだ? 何を焦ってるんだ?」
不思議そうに戸羽が首を傾げる。
目の前の男と三年前の彼の姿が、わずかに重ならない。その不気味なズレが、御影の胸に薄く冷たいものを広げていく。
「い、いや……そうだったな。珠代は、俺たちがこうやって飲んでると、よく怒ってたな」
御影はゆっくり息を吐き、グラスを持つ手に力を入れ直す。
なんとなく漏らしただけの言葉だったが、戸羽は満足げに頷いた。
「ああ、そうだ。酒ばかり飲んでないでちゃんと栄養あるものを食べろって目を三角にしてな。……あいつはわかってなかったんだ。この甘美な果実を口にする罪の味を、な」
戸羽はそう言いながらゆっくりとグラスを傾ける。その仕草はまるで、罪そのものを受け入れ味わっているかのようだった。
御影の指先がかすかに震える。それをごまかすように、思わず言葉がこぼれた。
「……知らないに越したことはないんじゃないか? 溺れるともいうぞ」
「かもしれん。だが、やめられない。そうだろ、御影?」
戸羽は何かを確かめるように視線を落とし、そっと灰皿を押し出した。
御影は戸惑いながらも軽く礼を言い、煙草に火をつけて煙を吐く。
言葉にならないまま、胸の奥の空洞へ珠代の名が沈んでいく。
グラスを持つ指がわずかに震えた。その瞬間、背後で誰かが息を呑む気配があった。振り返る気にはなれない。
きっと疲れているだけだ。そう思い込むように、御影は灰皿に煙草の先を静かに押しつけ、ゆっくりと息を吐いた。
心に空いた穴に風が吹き込んでいる気がする。ぽつりと、自分の口から声が漏れる。
「……なあ、戸羽。俺は……、珠代がいなくて、寂しいよ」
「そうだな。だがな、安心しろよ、御影。それもすぐ杞憂になる」
グラスの氷が小さく鳴った。
その音だけが、異様に大きく響いた気がした。
どういう意味だ、と問い返すより早く戸羽が口を開く。
「……なあ、御影。お前、今もAIの研究してるんだったよな?」
御影は顔を上げた。唐突すぎる問いだった。
「……まあ、してるが」
眉根を寄せて戸羽を見ると、彼は静かに笑った。その笑みには、狂信者のような確信の光だけが宿っていた。
声は落ち着いている。しかし、その奥では何かが浮ついている。長い年月、同じ妄想を反芻し続けた者の響きだった。
「だったら――手伝ってほしい研究があるんだ」
嫌な予感が、胸の奥で冷たく鳴った。
戸羽はポケットから小さな小型SSDを取り出し、指先で転がしながら呟いた。
「――珠代をつくる」
音が止まった。
空気が、時間ごと凍りついたようだった。
耳を疑う。狂気か、それとも正気か。
戸羽の目にはただ確信だけがある。本気だった。
山羊のシンボルが、淡い灯の中でそっと顔を覗かせていた。
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