第1話


 パソコンの唸る音が、狭い室内に低く響いていた。

 ぼんやりとした視界の中、御影はゆっくりと目を覚ます。どれほど眠っていたのだろうか。体の重さに気づき、肩や腰を伸ばした。室内は冷え込んでおり、空気には埃の匂いが混じっている。


 目の前のモニターが青白く光り、その微かな唸りが胸の奥で脈打つように感じられる。思考にはまだもやがかかっており、はっきりしない。葬儀の日の雨の感覚が、指先にこびりついたままだった。


 珠代を失ってから、三年が経つ。


 御影は大学に残り、そのまま研究員として論文と実験に追われる日々を過ごしてきた。ひたすらに、ただ真っ直ぐに。何者からか逃げるように。何かに向き合うように。

 だからこそ、だろうか。あの雨の日の記憶だけは薄れない。指先の湿気、戸羽の背中の重さ、そして珠代の不在。モニターに映る数字は整然としているのに、胸の奥に残った痛みだけは規則や理屈を拒んでいた。


 頭を振り、ポケットから煙草を取り出して火をつける。煙を肺に流し込むと、思考がわずかに澄んでいく。体に悪いことは理解している。それでもやめられない。あの時の戸羽の姿が脳裏を掠め、御影は自分も結局は同じなのだと自嘲した。


 あれ以来、戸羽とは会っていない。葬儀の後、ふらりと霧のように消えてしまった。

 誰も言葉にはしなかったが、後を追ったのではないか――そんな空気が友人たちの間で静かに共有されていた。御影自身も、その方が戸羽にとって救いだったのかもしれないと考えたことがある。


 ぼんやりとパソコンへ視線を戻そうとした時、机の上のスマートフォンが震えた。教授からの呼び出しかと身構える。しかし、ディスプレイに表示された名前を見た瞬間、息が止まった。


≪≪戸羽≫≫


 取るべきか逡巡が走る。胸の奥で、嫌な予感が輪郭を持ちはじめていた。

 だが、それを振り払うように御影は通話ボタンに指を滑らせた。


「も、もしもし……?」


 自分の声とは思えないほど硬い響きだった。何をそんなに緊張しているのか。


『御影か……? 良かった。番号は変わってなかったんだな』


 受話口から流れるのは、紛れもなく戸羽の声だった。ノイズ混じりの機械的な音質の奥に、懐かしい響きが確かにある。


「あ、ああ。急にどうしたんだ? というより、今までどこに――」

『そんなに焦るなよ。急に消えた事は……、まあ、悪かった。少し、忙しくてな。それよりも、話がしたいんだ。今から会えないか?』


 モニターが青白く瞬き、冷えた空気が胸に触れる。遠くでサーバーの低い唸りが震え、煙草の灰がわずかに揺れた。


「時間は取れるが……一体、どうした?」

『それなら良かった。いつも行っていたカプリコーンを覚えてるか? あそこで会おう』


 一方的に用件だけ伝えられると、ぶつり、と途切れる音が耳の奥に落ちた。戸羽の悪癖だ。言いたいことだけ言って満足してしまう。

 相変わらずだった。その何気ないやり取りに、なぜか御影は胸を撫でおろした。


 壁掛け時計を見ると、時刻は二十三時を回っていた。地下の研究所に籠っていると、時間の感覚が曖昧になる。

 煙草を灰皿に押し付けて火を消し、椅子から立ち上がった。視界の端で積み上がった書類の山が、まるで別の世界のもののように遠く思える。


 コートを羽織り、ドアを開ける。

 研究室を出て地下通路を抜け、エレベーターで地上へ向かった。扉が開くと、冬の冷たい空気が肌を刺した。歩くたびに、足元から冬の冷たさがじわりと染み込む。


 校門を抜けて大通りに出る。街灯の光が濡れたアスファルトに揺れていた。行き交う人々は誰も御影を見ず、彼の靴音だけが夜に溶けていく。


 交差点を渡るごとに、カプリコーンの暗い看板が近づいてくる。駆け出すつもりはなかったが、心臓はいつの間にか早鐘を打っていた。


 商店街に入り、しばらく進む。視界に店が飛び込んできた。山羊のシンボルが揺れる照明の中、不気味に浮かび上がっている。


 深く息をつき、御影は扉に手をかけた。

 この先で、戸羽が待っている。胸の奥で、過去の痛みとわずかな期待がざわめいた。


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