第6話 意識

 雫が復帰した日の三限目。

 教室は少しだけざわついていて、雫の席の周りには「風邪大丈夫?」「無理しちゃだめだよ」と優しい声が集まっていた。


 雫は笑顔でうなずいていたけれど、

 和人だけは、その笑顔が引きつっていることに気づいていた。


 授業が始まるにつれて、雫の様子はさらにおかしくなる。

 黒板を見つめているようで、焦点が合っていない。フラフラしてる。

 ページをめくる手がわずかに震えているし。唇の色も悪い。


(……絶対、無理してる)


 そう確信した和人は、授業中にもかかわらず、立ち上がってそっと雫の腕に触れた。


「先生雫さんが具合悪そうです。保健室に連れて行きます」


 平凡な和人が声を上げると、先生は驚いて「あ、ああ。お願いできるか」と答える。不思議と逆らえない強さがあった。

 雫が驚いたように顔を上げると、その瞬間ぐらり、と体が傾いた。


 和人はすぐに支える。


「やっぱり。顔真っ青じゃん」


「だ、だいじょうぶ……」


「大丈夫なわけない。歩ける?」


「……ちょっと、ふらふらする」


「じゃあ、手。ほら」


 雫の手を包むように握り、教室の後ろのドアへ。

 先生に軽く会釈すると、和人が言うより先に先生が理解したようにうなずいた。

 その後、一瞬教室から黄色い歓声が上がった。和人はその声で顔が熱くなるのを感じる。


「ごめん。やっちゃった」


「ううん。私も無理しちゃったみたい」


 廊下に出て少し歩く、雫は深く息を吐いた。

 その横顔を見て、和人は胸がぎゅっとなる。彼女の顔が熱で赤くなっているのか、教室の声で赤くなったのかわからなかったから。

 意識しているのは自分だけなのかと、自問自答する和人。顔が熱くなるのを感じながらも彼は雫を見つめる。


「無理しちゃダメだよ」


「……でも、みんなに迷惑かけたくなくて」


「迷惑なんか思ってるやつ、一人もいないよ。無理された方が困るから」


「……和人も?」


「え!? ……そう。心配なんだよ」


 その一言で、雫の耳まで真っ赤になった。

 握っていた手に、雫がそっと力を返してくる。それを感じた和人は更に顔が熱くなる。


 保健室に着くと、和人は最後まで手を離さなかった。


「あれ? 先生いない。先生呼んでくるね。ベッド入ってな」


「……和人、ありがとう」


「気づけてよかったよ。もう無理しちゃダメだよ」


 和人のその言葉に、雫の胸はじんわりと熱くなる。

 復帰後、初めて“守られている”と実感した瞬間だった。




 保健室のカーテンの奥。

 先生に薬をもらった後。

 雫は薄い布団にくるまりながら、弱々しくも和人の手を握っていた。


「熱……やっぱ高いな。また先生呼んでくるから、ちょっと待って」


 そう言って立ち上がろうとした瞬間。


 ぐいっ、と手が引かれた。


「……しずく?」


 雫の指が和人の手をきゅっと強く握り込む。

 普段なら絶対に見せない、甘えるような、緊張したような目で和人を見上げてきた。


「……もう、行っちゃうの?」


 その声は、か細くて、頼りなくて。

 反則のように可愛かった。


「いや……行かないよ。ちょっと先生呼ぶだけで」


「だめ……やだ……」


 雫は横になったまま、和人の腕を掴む。

 眉を下げて、熱のせいなのか潤んだ瞳で見つめてくる。


「もうちょっと……そばにいてほしいの。和人の手、あったかいから……離したくない……」


 そんなことを言われて、和人が動けるわけがなかった。


「わかった。じゃあ、もう少しだけ」


 和人は再びベッドの横にしゃがみ込み、雫の手を握り返した。

 その瞬間、雫の表情がすっと和らぐ。


「……ありがとう」


 微笑む口元が、小さく震える。

 熱と安心が混ざったような顔だった。


 和人の手を握ったまま、雫の目は少しずつとろんとしてくる。

 指先の力も、ゆっくりゆっくり弱くなっていった。


「和人……」


「ん?」


「寝るまで……そばに、いて……」


「うん。寝るまで」


 雫は安心したように、ふにゃりと笑った。

 その笑顔があまりに無防備で、和人の胸が締め付けられる。


 すると——


 雫の手が最後にぎゅっと強く握られたあと、ふっと力が抜けた。


 静かな寝息が聞こえ始める。


「……寝た、かな?」


 和人はそっと雫の手を布団の上に戻す……つもりが、指が絡んだまま離れない。


 どうやら雫は眠っていても本能で握りしめているらしい。


「……しょうがないな」


 和人は小声で笑い、雫の眠る横でしばらくその手を握っていた。

 カーテンの向こうから聞こえる体育の授業の音。

 この小さな空間だけ、時間が止まったみたいだった。


 やっと雫の指がゆるんできた頃、和人は立ち上がる。


「(じゃあ、先生呼んでくるから)」


 そう小声で言いながら軽く咳が出た。


「んん……?」


 喉が少し痛い。

 鼻の奥もむずむずする。


「……まさか、俺まで風邪……?」


 雫の熱がうつったのだろうか。

 自覚し始めた時にはすでに遅かった。


 その日の放課後——

 和人は見事に発熱し、家へ直帰することになるのだった。まあ、雫と長くいられたのだからいいか、と自問自答する和人であった。


 和人と雫はこの後も楽しい朝を過ごしていく。

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朝の雫は食いしん坊 カムイイムカ @kamuiimuka

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