第5話 いない朝

 その日の朝、教室の空気はどこか物足りなかった。


 黒板を拭き終え、花瓶にガーベラを挿しても、

 いつもの「おはよう、和人くん」が聞こえてこない。


 雫さんが来ない。

 席は空いたままで、鞄もない。


 ざわつく胸を抑えながら一日を過ごし、放課後。

 職員室に呼ばれた俺は、先生から厚めの封筒を手渡された。


「相沢、悪いけどこれ、瀬名に届けてくれないか?

 ちょっと風邪をひいて休んでるんだって。家、近いだろ?」


「え……瀬名さん、風邪……?」


「そうそう。同じ町内に住んでるって聞いたから頼むよ」


 そう言われたとき、胸がきゅっと締めつけられた。

 あの雫さんが、風邪を……。


「……わかりました。届けます」


 封筒を抱えた瞬間、手のひらが熱くなる。

 教室とは違う場所――彼女の“家”へ行くという現実が急に重く押し寄せてきた。


 俺なんかが行っていいんだろうか。

 でも、行かないわけにはいかない。

 というか家近かったんだな。

 


 夕方、雫さんの家へ向かう道を歩く。

 同じ街に住んでいながら、こんな気持ちで家を探すのは初めてだ。


 白い壁の落ち着いた住宅の前に着き、

 インターホンのボタンに指を伸ばす手が震えた。


「……あ、相沢です。プリントを……届けに来ました」


 しばらくして、扉の向こうから聞き慣れた声が返ってきた。親御さんじゃない声にドキッと胸が弾む。


『……ごめんね、わざわざ。和人くん』


 弱っているのに、俺の名前を呼ぶ声はいつもより柔らかくて、

 胸がズキッとするほど心配になった。


「いや、その……大丈夫? 風邪、ひどいの?」


『ん……少しだけ。熱は少し下がったよ』


 そう言って扉が少しだけ開く。


 顔を出した雫さんは、いつもより頬が赤い。

 それが熱のせいだと分かっていながら、心臓が跳ねてしまう。


「無理しないで、寝ててよかったのに」


「プリント、ありがとう……ほんとに。和人くんが来てくれて……ちょっと元気でた」


 はにかむような笑顔。

 その姿を見ただけで、胸がぎゅっとなる。


「……あ、あの……朝、来なかったから……心配で」


 言ってしまってから、顔が熱くなる。


 雫さんは驚いたように瞬きをして、それからふっと笑った。


「……うん。私も、今日の花……見たかったな」


 その一言で、耳まで真っ赤になる。


 風邪で弱っているのに、そんな言葉を言われるなんて……反則だ。


「明日、来れるようにするから……。そしたら、どんな花だったか教えてね?」


 そんなふうに頼まれたら、誰だって意識してしまう。


「う、うん……もちろんだよ」


「うん……楽しみにしてる」


 そう言って雫さんはゆっくり扉を閉めた。


 最後の一瞬まで、彼女の微笑みが残っていた。


 風邪の心配よりも、胸がずっと熱くなるのはどうしてだろう。


 早朝だけの関係だったはずなのに、

 今日、俺たちの距離はほんの少し近づいた気がした。





 翌朝。

 黒板を拭き終え、花瓶の位置を整え、いつものように花を挿す。


 今日は紫色のスターチス。

 花言葉は“変わらぬ心”。

 雫さんがいなくても、早朝の教室に花を挿すのは変わらない……そんな気持ちで選んだ。


 でも――


 やっぱり、いない教室は寂しい。


 静けさが、ひどく広く感じる。


 昨日、玄関先で見た雫さんの弱った声がずっと耳に残っていた。

 熱で赤い頬も、いつもより細い声も、全部が気になって仕方ない。


「……今日、来られるって言ってたけど……大丈夫かな」


 自分で言って、また胸が熱くなる。

 こんなに心配してしまうなんて、俺……どうしたんだろう。


 


 窓を開けようと立ち上がったその時――


 カララッ、とドアが開く小さな音がした。


 


「あ……和人くん……」


 


 振り返った瞬間、心臓が跳ねあがった。


 雫さんが立っていた――

 笑顔で、けれどまだほんの少しだけ頬に赤みを残した顔で。


「瀬名さん……! 大丈夫? 本当にもう平気なの?」


「うん……まだ少しぼーっとするけど、来たかったから」


 言ったあと、雫さんは目を伏せて小さく笑った。


「昨日、玄関まで来てくれたの……嬉しかったよ。

 提出物だけど……和人くんが来てくれて、安心した」


「そ、そっか……よかった……」


 胸に何かあたたかいものが広がり、言葉がうまく出てこない。


「今日の花……これ?」


 雫さんが花瓶に目を向ける。

 スターチスを指先でそっと触れて、少しだけ目を丸くした。


「紫のスターチス……綺麗。

 私、この色すごく好き」


「ほんとに……?」


 その言葉だけで、朝の光が全部優しく見えた。


「うん。……それにね」


 雫さんは小さく息を吸い、頬を染めながら続けた。


「スターチスの花言葉……“変わらぬ心”なんだよね」


「っ……!」


 まさか知ってるなんて思わなかった。

 胸がドクンと脈打つ。


「だから……ちょっとドキッとした。

 まだ風邪で変なんじゃないよ? 本気で……」


 言いかけて、雫さんは言葉をごまかすように笑う。


「え、えっと……ありがとう、和人くん。ほんとに」


 その笑顔は、風邪明けとは思えないほど眩しかった。


 気づけば俺は、自然と口元がゆるんでいた。


「……雫さん、ほんとに元気になってよかった。

 またこうして朝、一緒にいられて……嬉しいよ」


 正直すぎる言葉が勝手に口から出る。


 雫さんはびくっと肩を揺らし、それから――


「……っ、和人くん、そういうの……ずるいよ」


 目をそらしながら、耳まで真っ赤にしていた。


 


 風邪で空いた三日間を取り戻すように、

 教室にはじんわりと温かい空気が満ちていく。


 やっぱり、この朝の時間は――雫さんがいないとだめだ。


 そう思った瞬間、花瓶のスターチスがやけに誇らしげに見えた。

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