第4話 言葉


 ガラリとドアを開けると、今日も黒板の前には彼の姿があった。

 チョークの粉を払う白い指。

 差し込む光が、少し寝癖のある髪を柔らかく縁取っている。


「……あ、雫さん。おはよう」


「おはよう、和人くん。今日も早いね」


 彼が恥ずかしそうに笑い、いつもの花瓶に目を向けるよう促してきた。


「今日の花、どうかな。雫さんに……似合うと思って」


 その一言を聞いただけで心臓が跳ねる。


 そっと花瓶を覗き込むと――


 一輪の、淡いピンク色のガーベラがそこにあった。


 


 可愛い。

 でも、それ以上に胸がざわつく。


 ピンクのガーベラの花言葉。

 “感謝” “思いやり” そして――“崇高な愛”。


 どうしよう。

 知っている私は、完全に意識してしまう。


「……すごく綺麗。優しい色」


「よかった……。雫さん、こういう色好きかなって思って」


 そんな理由で選んだだけ?

 それとも、花言葉まで知って……?


 まさかね。

 けれど問いただす勇気はとてもじゃないけれど出てこない。


 


「ねえ、今日も何か持ってきたの?」


 和人くんが、覗き込むように聞いてくる。


 私は慌てて袋を胸元で抱えた。


「あ、はい。今日は……その、ハートのチョコパンです。

 甘いの好きって言ってたから……」


「本当? ありがとう! めちゃくちゃ嬉しいよ」


 純粋な笑顔に、もう顔が熱くて仕方ない。


 花言葉なんて、きっと彼は知らない。

 でも私は知ってしまったから、こんなに動揺している。


 ガーベラを選んでくれたのが嬉しすぎて、

 それが意味を持っているように思えてしまう。


 


「……本当に、ありがとう。和人くん」


 私が言うと、彼は少し照れたように笑った。


「雫さんが喜んでくれるなら、それだけでいいよ」


 その笑顔は、花言葉よりずっと真っすぐで、

 私の胸をくすぐる。




 その日の放課後、私は自分の部屋の机でずっとそわそわしていた。

 胸の奥に、朝のガーベラがずっと残っている。


 ――和人くん、どういうつもりであれを選んだのかな。


 花の知識があるようには見えない。

 でも、あの淡いピンクのガーベラを「雫さんに似合う」と言ってくれた。

 それがどうしてか、自分でも説明できないほど嬉しくて。


「……ちょっとだけ。調べてみよ」


 私は棚から分厚い図鑑を取り出した。

 母がずっと前に買ってくれた『花と言葉の事典』。

 普段なら開くことなんてないのに、今は胸がどきどきして仕方ない。


 パラパラとページをめくる指が、妙に震えている。


「えっと……ガーベラ、ガーベラ……」


 やっと見つけた項目に、私は息を飲んだ。


 ――ピンクのガーベラの花言葉:

 “思いやり” “感謝” “熱愛” “崇高な愛”。


 さっきまで頭にあった言葉より、ずっと強い意味が載っている。


「……っ!」


 ページを見た瞬間、顔が一気に熱くなる。

 ピンクのガーベラがこんな意味を持つなんて知らなかった。


 『熱愛』なんて……そんな、そんなはずないよ……!


 慌てて本をパタンと閉じ、胸にぎゅっと抱きしめる。


 和人くんは、ただ綺麗な花だから選んだだけ。

 理由はきっとそれだけ。

 花言葉なんて知ってるわけない。


 ……でも。


「……もし、知ってたら?」


 浮かんだ疑問が、心臓の奥を強く叩いた。


 花瓶に花を毎朝いれてくれる。

 誰に見せるわけでもなく、ただ早朝の二人だけの時間のために。

 そんな和人くんが、もしかしたら花言葉も調べていたら――


「……だめ。考えすぎだよ、私……」


 そう言いながら、鏡に映る自分の顔は真っ赤だった。


 それでも、胸の奥はどこか嬉しくて、

 ページの写真のガーベラを何度も見返してしまう。


 好きだなんて言われてないのに、

 “熱愛”なんて、まだ絶対にないのに。


 でも、花言葉を知ってしまったせいで、

 明日の朝、彼と目が合わせられる気がしない。


 早朝の教室で、また新しい花が置かれていたら。

 私、どんな顔すればいいんだろう。


 不安で、でも――

 楽しみで、胸がぎゅうっとなる。


「……明日、会うのこわいなぁ……でも、楽しみ……」


 自分でも分からない気持ちに揺れながら、

 私はそっと本を閉じた。


 秘密の関係は、花言葉ひとつで、もっと特別になってしまった。



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