第3話 ハート

 和人はその夜、なかなか寝つけなかった。


 雫からもらった“ハートのチョコパン”が、手のひらの中でずっと温度を持っていたような気がしていた。

 思い出すだけで胸の奥がむずがゆくなる。


 ――僕も、何か返せないかな。


 そう考えたとき、すぐに思い浮かんだのは花だった。


 雫は毎朝、和人の選んだ花に気づいてくれている。

 なら、今日だけは“雫のための花”を用意したいと思った。


 翌朝。

 いつもより少し早く家を出て、近くの小さな花屋に立ち寄る。


 店内には朝の光が差し込み、色とりどりの花が静かに並んでいた。


 「雫に似合う花って……なんだろう」


 ひとつひとつ見て回る。

 控えめな白い花でも、明るいオレンジでもない。

 昨日の雫――照れて、赤くなって、必死に気持ちを隠そうとしていた横顔が浮かぶ。


 ……あれだ。


 和人は一輪だけ、迷わず手に取った。


 ピンク色のガーベラ。


 「花言葉は……“崇高な愛”“感謝”……か」


 ちょっと意味が重い気もしたが、色の柔らかさのほうが雫らしい。

 それに花言葉なんて知られなければいい。

 ただ“綺麗だと思ったから”という理由で押し通そう。


 和人はその一輪を大切に包んでもらい、教室へ向かった。


 黒板を拭いたあと、花瓶にそっと挿す。

 いつもの無造作な入れ方とは違い、今日は中心になるよう丁寧に。


 ――雫、気づくかな。


 自分でも驚くほど緊張している。


 ガラリ。


 扉が開いた。


 「お、おはよう……相沢くんっ!」


 雫はいつもの紙袋を抱え、嬉しそうに駆け寄る。

 今日は焼き立てのメロンパンらしい甘い香りを漂わせている。


 「今日のはね、外カリカリの……あっ」


 雫の声が止まった。


 視線は花瓶に釘づけだった。


 しばらく黙って、ゆっくりと歩み寄る。

 そして、まるで宝物を見るようにピンクのガーベラを触れずに眺めた。


 「……これ、今日の花?」


 「う、うん。まあ……その……たまたま」


 「嘘だよね?」


 和人は言葉に詰まった。


 雫は振り返り、柔らかい笑顔を浮かべる。


 「だって……こんな綺麗な色、いつも選ばないもん」


 「選ばないって……桐谷さん、僕のこと見すぎじゃ……」


 「見てるよ、毎日。相沢くんの“朝の仕事”、全部」


 胸がどきりと跳ねる。


 雫はガーベラを見つめながら、そっと言った。


「……これ、わたしのため?」


 直接聞かれると、逃げ場がない。


 「……もし、違ったら……怒る?」


 和人が逆に聞いてしまうと、雫は一瞬目を丸くし――


 顔を、ゆっくり、可愛らしく赤くした。


 「……怒らないよ。むしろ……すっごく、うれしい」


 涙が出そうなくらい嬉しそうに、雫は両手でメロンパンの袋を抱きしめる。


 「ね、相沢くん。今日のパン……ちょっと特別なんだよ」


 「特別?」


 「うん。中にね……チョコ、増量したの。昨日よりも」


 またチョコか、と和人は思うけど、同時に胸に灯るものがある。


 お返しが返されて、秘密が積み重なっていく。


 雫はガーベラから目を離さずに、ぽつりと呟いた。


 「……明日も来てね。もっと、特別な朝になるかもしれないから」


 “かもしれない”。


 そのひと言が、和人の心を一瞬でざわつかせた。


 ピンク色のガーベラは、朝日に照らされて、まるで雫の頬の色みたいに見えた。



 翌朝。

 和人はいつも通り教室に入った。

 ピンクのガーベラはまだ元気に開いている。雫のために選んだ特別な花だ。


 黒板を拭き終わった頃、扉が少しだけ開き、ひょこっと顔を覗かせる影があった。


 「……相沢くーん……いる……?」


 雫だった。

 妙に控えめな声で、そろそろ入ってくる。


 「おはよう、相沢くん。今日はね――」


 雫が紙袋を抱えながら近づいてくる。その顔は昨日よりもさらに明るい。


 「チョコ……また増やしちゃった。ちょっと溶けてるかも」


 「また増やしたの?」


 「……わ、悪い?」


 「悪くないよ。ありがとう」


 和人が受け取ると、雫はほっとして微笑んだ。


 ――その瞬間だった。


 ガラリッ!!


 「おーっす! 今日も一番乗……えっ?」


 大きな声とともに入ってきたのは、和人のクラスメイト・杉田だ。朝練のあるサッカー部で、いつも早い。


 雫の表情が一瞬で固まる。

 和人は咄嗟に紙袋を背中に隠した。


 だが、すでに遅い。


 「……桐谷? なんでこんな時間に?」


 一瞬の沈黙。

 雫はにっこり笑ったが、その頬はうっすら赤い。


 「たまたま……早く来ちゃっただけだよ?」


 「ふーん。で、相沢と何してんの?」


 杉田がニヤリと笑う。

 その視線は、花瓶のピンク色のガーベラに向かっていた。


 「あれ? こんな花、いつもあったっけ?」


 和人の心臓が跳ねる。


 雫は一歩前に出て笑顔のまま言い放った。


 「……ねぇ杉田くん。女子が朝からいるのが珍しいわけ?」


 「へ? あ、いや、そういうわけじゃ……」


 雫はさらに一歩近づいて、杉田を軽く見上げる形で目を合わせる。


 「じゃあ、変な詮索やめて? わたし、ただ相沢くんと――」


 和人は思わず息を止めた。


 (言うな……!)


 しかし雫はにっこり笑って、言葉を続けた。


 「――黒板消し借りに来ただけだから」


 「……黒板消し?」


 「ほら、昨日汚しちゃったから。借りていい?」


 雫は黒板消しをあたかも本気で必要そうに手を伸ばした。


 杉田は「あ、あぁ……」と完全に引き下がり、

 「じゃ、オレ準備してくるわ……」と逃げるように席へ向かった。


 扉が閉まる。


 次の瞬間――


 雫は和人のほうに向き直り、胸を押さえて小さく息をついた。


 「……びっくりしたぁ……!」


 「お、俺も……」


 二人は同時にほっと息を吐いた。


 雫は黒板消しをくるくる回しながら口を尖らせる。


 「もう……相沢くん、隠し方下手だよ……」


 「いや……急に来たから……!」


 しばらく二人で小声で笑い合った後、雫はふっと表情をゆるめた。


 「でもね。守りたかったんだ」


 「なにを?」


 雫は言葉を選ぶように、視線をガーベラへ向ける。


「……この時間。“わたしたちだけの朝”ってやつ」


 和人は返す言葉を見つけられなかった。


 雫は紙袋をそっと差し出した。


 「だから……はい、今日のパン。秘密ね?」


 受け取る瞬間、指先が触れた。

 ほんの少しだけ。けれど、確かに。


 教室の扉の向こうでは、部活帰りの足音が近づいてくる。


 ――誰かが来る前に。


 雫はいたずらっぽく笑った。


 「ね、相沢くん。明日も来るよね?」


 その笑顔が、和人には“絶対に裏切れない約束”みたいに見えた。

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