第2話 雫

 翌朝。

 和人はいつもより少しだけ早く学校に向かった。

 理由は……考えないようにしても、どうしても浮かんでしまう。


 ――雫は、今日も来るのだろうか。


 昨日も十分不思議だったのに、あの「明日も来るね」という言葉は、妙に確信めいていた。


 教室に入ると、まだ誰もいないいつもの静けさ。

 和人はいつものように花瓶の水を替え、新しい花を差し入れる。

 今日はガーベラ。明るいオレンジ色が朝日によく映える。


 黒板を軽く拭き終えたところで――。


 ガラリ。


 「……相沢くん、おはよ!」


 息を弾ませて入ってきた桐谷雫。

 手に持った紙袋が大きく揺れている。


 「お、おはよう。今日も早いね」


 「うん! だって……これ、温かいうちに食べてもらいたかったから!」


 嬉しそうに紙袋を掲げる雫。

 顔がほんのり赤いのは、走ってきたせいか、それとも別の理由か。


 「今日はね……たい焼き!」


 「えっ、朝からたい焼き?」


 「だめ……?」


 しゅん、と肩が落ちる。

 反応が素直すぎて、思わず笑ってしまいそうになる。


 「だ、だめじゃないよ。ただ珍しいなって」


 ぱっと雫の表情が明るくなった。


 「よかった! ここ、学校の近くに新しいお店ができてね、どうしても食べてほしくて……ほら、できたて!」


 雫は紙袋をそっと開け、中から湯気の立つたい焼きを取り出した。

 尻尾の部分をつまんで、目をきらきらさせながら微笑む。


 「ね、相沢くんも食べよ。同じの買ってきたから!」


 「……桐谷さん、毎日食べ物持ってくるの?」


 「えー……わたし、食べるの好きだし。おいしいもの見つけたら誰かに食べてもらいたくなるんだよね」


 言いながら、雫の視線は和人の手元のガーベラへ向く。


 「相沢くんもそうでしょ? ほら、お花。誰にも言わないけど……わたし、すごく楽しみにしてるんだよ?」


 「た、楽しみに?」


 「うん。今日はどんな花かなって思いながら来てる」


 その言葉に、和人は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


 花を替えるのは、自分のためだけだと思っていた。

 誰かが見ているなんて、考えたこともなかった。


 雫はたい焼きを両手で持ちながら、またひとつ近づく。


 「だからね、これはお返し。わたしの“朝のお楽しみ”なの」


 「ぼ、僕に……?」


 「もちろん。二人の秘密でしょ?」


 そう言って、雫はたい焼きを差し出す。

 和人はその小さな手の温もりを感じながら、受け取った。


 「……ありがとう。もらうよ」


 「うんっ!」


 雫は嬉しそうに自分のたい焼きにかぶりつく。

 目を細め、ほっぺを膨らませながら――


 「……おいし~……」


 まるで幸せの塊のような表情をしていた。


 その瞬間、和人は気づいてしまった。


 ――桐谷雫は、ただの“美少女”なんかじゃない。

 自分だけが知っている、もっと近くて、もっと特別な顔を持っている。


 朝の静けさの中、二人だけの秘密がまたひとつ増えていった。





 その翌朝。

 和人はいつもより心臓が騒がしいまま、教室の扉を開けた。


 雫が何を持ってくるか、なんて考えてはいない。

 ……はずだった。


 それでも、どこか胸の奥がそわそわする。


 「落ち着け、僕。ただの早朝だって……」


 呟きながら花瓶の水を替え、今日は白いカーネーションをそっと入れる。

 黒板を拭いていると――。


 ガラリ。


 「……お、おはよう、相沢くん」


 声が小さい。

 いつも元気に入ってくる雫にしては珍しい。


 「桐谷さん、おはよ……」


 言いかけたところで、和人は気づいた。


 ――雫が、両手で紙袋を抱えて胸に押し当てている。


 しかも、その紙袋……昨日よりも可愛らしいラッピングになっていた。


 「ど、どうしたの? それ……」


 「えっと……今日は、ね……」


 雫はもじもじと視線を泳がせ、耳までほんのり赤い。

 こんな雫は初めて見る。


 「……手作り、してみたの」


 「て、手作り?」


 こくん、と雫は小さくうなずく。


 紙袋から取り出されたのは、ふわりと甘い香りの漂う小さなパン。

 丸い形の上に、溶かしたチョコでハートが描かれている。


 ――ハート。


 和人の頭が一瞬まっ白になる。


 雫は恥ずかしそうに視線をそらしながら、ぽつりと呟いた。


 「……味見したら、ちゃんとおいしかったよ? だから……あの……」


 「…………」


 「うぅ、そんな顔で見ないで……」


 「いや、だって……これ……」


 中学生の男子にとって、ハートのついた手作りなんて破壊力が強すぎた。


 「ま、まぁ……別に深い意味とか、そんな“特別”じゃなくて……!」


 「特別じゃないんだ……?」


 ぽつ、と漏れた和人の言葉に、雫が一瞬固まった。


 すぐに、顔を真っ赤にして慌てふためく。


 「あっ、ち、違う! 違うよ! “特別じゃない”は嘘! ちが……や、その……!」


 あたふたして頭を抱える雫。

 その姿が可愛くて、和人は苦笑しそうになるのを必死で抑えた。


 「……ありがとう。すごく嬉しいよ」


 和人がそう言うと、雫の動きが止まる。


 そしてゆっくりと顔を上げ――。


 「……ほんと?」


 大きく、期待に揺れる瞳。


 「うん。こんなの、もらったことないし。大事に食べるよ」


 雫は胸に手を当てて、ふわっと表情を緩めた。


 「よかった……失敗したらどうしようって、ちょっと……ドキドキしてた」


 「ドキドキ?」


 「し、しない? 相沢くん、こういうの……」


 「するけど……」


 和人はパンのハートを見つめて、小さく息をのむ。


 朝の光に照らされたチョコのハートが、思っていた以上に輝いて見えた。


 雫はそっと近づいて、声を落とす。


 「……そのパンね。相沢くんのだけ、チョコ多めにしたんだよ」


 「え、なんで?」


 「……なんでだと思う?」


 意味深な微笑み。


 和人が答えられずにいると、雫は自分の席に向かいながら振り返った。


 「秘密だよ。早朝だけの」


 温かいパンの香りと共に、二人の間にまた新しい“秘密”が積み重なっていった。

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