第3話

鈴の音が聞こえた。


店先の花に霧吹きをかけていた私は、その音に顔を上げた。

あの子は今日も、店の前の小さな敷石を軽やかに渡ってくる。

本当に、ふらっと立ち寄るような気楽さで。


「いらっしゃい、今日も来たの?」


声をかけると、あの子は当然のように店内へ入ってきて、

いつもの場所――入口横の低いスツールに、静かに腰を下ろした。

そこがあの子のお気に入りなのは、ずっと前から知っている。


「今日はね、ラベンダーが新しく入ったの。いい香りよ」


そう言って差し出すと、あの子は顔を寄せてふわっと香りを確かめる。

その仕草が可愛くて、つい笑ってしまう。


作業をしていると、あの子は店のあちこちをゆっくり見て回る。

まるでディスプレイを眺めているみたいに、新しい花を見つけては立ち止まる。

その姿が、店を明るくしてくれるのよね。


「ほんと、あなたがいるとお店が華やぐわ」


そう声をかけると、あの子は少し照れたように視線をそらした。

まるで褒められ慣れていない子みたいに。


そんな日常が当たり前のように続いていた、ある雨の日のこと。


店先の屋根を叩く雨の音がいつもより大きく、

店内の湿った空気に緑の匂いが濃くまじっていた。


「今日は来ないかなぁ、雨だし」


ぽつりと独り言をつぶやいたそのとき――

ちりん、と小さく鈴が鳴った。


「えっ……来たの?」


扉の前に立っていたあの子は、すっかり濡れていた。

それでも、こちらを見上げて軽く首を傾ける仕草はいつもと同じで、

思わず胸が温かくなる。


「もう、びしょ濡れじゃない。こっち来て」


タオルを持ってきて、そっと水気を拭ってやる。

あの子はされるがままに目を細め、ときどきくすぐったそうに肩を揺らす。

雨の匂いと花の香りが混ざって、なんともいえない優しい空気が流れた。


「雨の日に来てくれるなんて、ちょっと嬉しいけど……無理しないでよ?」


そう言いながら、店の奥に小さなクッションを置いてやると、

あの子はそこに軽く体を預け、静かに息をついた。

まるで雨音を聞きながら、心を落ち着けているようだった。


私はその隣で、少し静かになった店内の花を整えた。

雨の日って売れ行きは悪いけど、

そのぶん、あの子と過ごす時間がゆっくり流れる。


窓の外では雨がまだ降り続いていたけれど、

店の中にはあの子の温もりがぽつんと灯っていた。


――あの子と過ごす雨の日だけは、不思議と冷たく感じなかった。

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