2. 自然科学園、かわいい祭りのはじまり
自然科学園は、大学の裏手に広がる実験用の森だった。
といっても、僕の目には、ただの静かな散歩道に見える。木漏れ日が揺れ、土の匂いが心地いい。
これから“かわいい昆虫探索”が始まるとは思えないほど、穏やかな景色だ。
しかし、その静けさを破ったのは教授だった。
「学生くん、まずは地面を見るのだ! かわいいは足元から湧く!」
開口一番の謎の名言に、僕は反射的にツッコミそうになったが、佐伯さんが先に声を出した。
「教授、学生くんが開始五秒で混乱してます」
「混乱の中にこそ発見がある!」
「教授、その混乱はただの
軽やかな漫才の応酬が始まり、僕はすでに“いつものペース”らしいことを察する。
やがて、教授が落ち葉をひっくり返した瞬間、小さな黒い球がくるりと丸まった。
「あっ、ダンゴムシ……!」
「そうだ学生くん! “かわいい”の原石だ!」
「教授、原石って言いながら落ち葉めくっただけですよね?」
「学生くん、落ち葉の下は宝の山だ!」
「教授が言うと全部宝に聞こえて、ありがたみが薄れるんです……」
佐伯さんがくすりと笑う。
「学生くん、まず触ってみて。噛まないから安心していいわ」
白衣の袖が揺れ、やわらかな声が僕を励ます。少し緊張しながら手を伸ばすと、丸い球がぱちんと開き、ちょこちょこと歩き出した。
「……かわいい……かも」
自然に言葉が漏れた。
その瞬間、教授のテンションが一段上がる。
「学生くん! 君は今“かわいいの第一歩”を踏み出した!」
「教授、その言い方だけ聞くと、恋愛指南みたいなんですけど!」
「かわいいとは恋だ!」
「名言っぽくして誤魔化さないでください」
ダンゴムシは僕の手の中をしばらく歩くと、満足したように土へ戻っていった。
その小さな背中を見送りながら、自然と笑みが浮かんだ。
「さて学生くん、次は
教授が急に指をさす。
白い影がひらひらと舞い降りる。
「モンシロチョウ……?」
蝶はふわりと僕たちの周囲を飛び、光に透ける翅が柔らかく揺れた。
昆虫を“かわいい”と意識したことがなかった僕でも、その動きは心を掴んだ。
「飛んでる姿、綺麗ですね……」
「学生くん、今のは“かわいいの中にある美”だ!」
「教授、ジャンル増やさないでください!」
佐伯さんが優しく説明を添える。
「蝶はね、翅の模様で自己紹介しているようなものよ。ほら、この黒い点。あれで仲間同士がわかるの」
「自己紹介……蝶ってそんなにかわいい生き物だったんですね……」
「学生くん、かわいさは生存戦略だ!」
「また名言っぽいんですけど結論が壮大すぎるんです!」
蝶はひとしきり僕らの周囲を舞うと、すっと空へ戻っていった。
その背中は、まるで「また会おうね」と言っているみたいだった。
しばらく余韻に浸っていると、教授が突然振り向く。
「学生くん、次はカマキリだ!!」
「急にジャンルが戦闘職っぽいですよ!?」
「大丈夫だ、今日のカマキリは“平和主義モデル”だ!」
「そんなカマキリいるんですか!?」
「教授の頭の中には存在するのよ、学生くん」
佐伯さんがさらりと言い、僕の肩を軽く押す。
すでに諦めと信頼が混ざった“助教の風格”が漂っていた。
草の影に、細い影がひっそりと立っていた。
一匹のカマキリ。こちらを向いて、なぜか完璧なポーズで静止している。
「……意外と怖くないかも……?」
「だろう学生くん! カマキリは“ポージングの王”なのだ!」
「教授、それ生態じゃなくてモデル理論ですよね!?」
「見たまえ、この角度。あれは“撮ってくれ”と言っている!」
「教授、願望を生態に混ぜないで!」
しかし確かに、カマキリはカメラを構えた僕の動きに合わせて、
微妙にポーズを変えているように見えた。
首をちょんと傾けた瞬間、心がふわっと揺れた。
「……かわいいかもしれない……」
「学生くん、また“かもしれない”が出たな! よい兆候だ!」
「教授、僕のかわいい判定を、成長記録みたいに扱わないでください!」
写真を撮ると、カマキリは満足したように草むらへ戻っていった。
その背中から、なぜか“おつかれ”というオーラを感じた。
「よし学生くん、ここまで順調だ! 次は――」
教授が高らかに宣言する。
「テントウムシだ!!」
「教授、それ絶対かわいいやつじゃないですか!」
「学生くんのテンションがとうとう上がった……ふふふ、良きかな良きかな……」
「教授、企み顔が怖いです!」
佐伯さんが優しく笑った。
「でも学生くん。ここからが本番よ。テントウムシは“かわいい界の王道”だから、しっかり見てね」
木漏れ日の道を進みながら、僕は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。
(……昆虫をかわいいと思う日が来るなんて……)
そんな不思議な気持ちを抱えながら、僕たちは次なる“かわいい”のもとへ歩いていった。
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