“かわいい昆虫学”入門 ―天才教授と助教と僕の研究室日常―
金城由樹
1. 昆虫学研究室、という名の入り口は意外と普通……のはずだった
大学研究棟の三階の突き当たり、静かな廊下の奥に「昆虫学研究室」と書かれたプレートが下がっている。
春の光が反射して白く輝き、まるで僕を歓迎しているようにも見えた。
……いや、見えたはずだった……。
(まあ……昆虫は平気だし、ここなら普通にやっていけるはず)
そんな軽い気持ちで扉を開けた瞬間、僕は世界の広さを知った。
「……おお……」
壁一面の標本棚。
ガラス越しに、整然と並んだ翅や複眼が光を返している。
昆虫の全身が“生き物の設計図”のようにきれいに整理されていて、素直に感嘆してしまった。
(すごい……こんなに種類が……)
驚きで眺めていると、奥から落ち着いた低い声がした。
「おはよう、学生くん。初日から良い反応だ」
「あ、教授! おはようございます!」
白髪混じりの髪に細い眼鏡。
この研究室の主、そして昆虫学の世界的権威と名高い『教授』が机の前に立っていた。
声は静かだけど、言葉の内容がときどき速度違反を起こすと聞いていた。
僕は適度な緊張をまといながら挨拶を済ませる。
「おはようございます、学生くん」
柔らかく品のある声が横から聞こえてくる。
振り向くと、白衣姿の
胸のラインが白衣越しにわずかに揺れて、僕は焦って目をそらす。
「さ、佐伯さん、おはようございます」
「緊張してる? 大丈夫よ。教授が急に難しい話をしても、わたしが通訳しますから」
「えっ……通訳が必要なレベルなんですね……?」
「必要ですよ。保証します」
落ち着いた笑顔に、僕は“ああ、この人がいればなんとかなるかもしれない”と根拠のない安心を覚えた。
すると、教授が黒板に向かい、唐突にチョークを走らせる。
『かわいいもの』
(かわいい……?)
続けて、黒板に新しい言葉が並んでいく。
『かわいい昆虫の探索と心理的受容』
「はい決定だ。学生くんの卒論テーマはこれだ」
「えっ、こんな勢いで決まるんですか!?」
「勢いこそ生命だよ、学生くん。昆虫の多様な魅力を“かわいい”という切り口で可視化していく……これは新しい学問の地平だ」
「教授、朝から地平を切り
佐伯さんのツッコミは、鋭いのにやさしい。
慣れた口調なのが逆に恐ろしい。
教授は僕を指差す。
「学生くん。“かわいい”という感性は、専門知識に勝る武器だ。君のような初心者の目が、新しい価値を発見するのだよ!」
「そ、そんなに褒められるほどの目は……」
「大丈夫。自信がないなら、歩きながら育てればいい。昆虫の“かわいさ”は、触れた瞬間に開花することがある」
「教授、それはほとんど恋愛の話ですよね?」
佐伯さんのツッコミが見事に決まり、教授は袖を払うように軽く笑った。
「さて、行くぞ。自然科学園へフィールドワークだ。“かわいい”を探すのだ」
「えっ、いきなりですか!?」
「準備は不要だ。かわいさは待ってくれない」
(いや、“かわいさ”って待つとか待たないとかあるんですか……?)
僕が混乱している横で、佐伯さんは白衣の裾を整え、僕にやわらかな視線を向ける。
「行きましょう、学生くん。今日があなたの“かわいい昆虫”デビューの日ね」
「は、はい……!」
昆虫は苦手ではない。
でも、絶対に“普通じゃない研究室”であることだけは、もう完璧に理解した。
こうして僕は、教授と佐伯さんという、天才と天使(と少しだけ悪魔)のような二人に挟まれながら、“かわいい昆虫探索”のフィールドへ押し出されていった。
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