第4話 蓮の家
蓮の家——小野寺家——は、本当に近かった。
商店街から歩いて二、三分の距離にこんな閑静な住宅地があったんだと、拓海は少し驚いた。その中の一軒、それほど大きくはないがまだ新しそうな白い洒落た家、その玄関前に拓海はいた。カーポートの奥には、狭いが手入れの行き届いた芝生の庭が見える。
——いい所に住んでるなぁ。
ガチャリ、と玄関が開いて「ごめんなさいね、ちょっと玄関が散らかっていたから——」と瑞希が顔を出し、拓海は中に入るように促された。実際に待たされたのは三十秒も無かっただろう。ひどく恐縮している瑞希に、拓海の方も恐縮し通しであった。
玄関に入ろうとしたら、扉の奥からタイガが現れた。威嚇するような態度ではないが、それでも行く手を遮るように立ち止まり、こちらを見上げてくる。
「こらっ、タイガ」
瑞希に窘められて渋々道を譲る。そんなタイガに、拓海は「はは……」と苦笑するしかない。
「おじさん、早くこっちに来て」
拓海の背中を押すように、蓮が廊下の奥へと誘導する。その後ろを、暗殺者の如くピッタリとマークして付いてくるタイガ。自分の失態が原因とはいえ、拓海を家に上げることを承服しかねているのだろう。
一方、蓮はというと、先ほどまでの意気消沈ぶりはどこへやら、拓海に興味津々である。そわそわと今の状況を喜んでいるようにも見える。
リビングに通された拓海は、言われるがままソファに腰掛けた。
「誰もいなかったからエアコンも付けてなくて……、ちょっと寒いですよね、今温めますから」
瑞希の言葉に、お構いなく、と言おうとした拓海だが、みんなも寒いわけだし断るのも変な話だと「はあ……」とだけ答えておく。気にしても仕方ないことを気にするのが拓海の悪いところだが、美徳とも言えるだろう。
「はい、これで終わり」
と、傷の手当を終え、救急箱の蓋を閉めて瑞希が言った。そして、頬に絆創膏を貼られた拓海に改めて謝罪をする。
「今日は、本当にごめんなさい」
絨毯に正座して丁寧に頭を下げる瑞希に、
「いえ、こちらこそ……!」
と、慌てて頭を下げる拓海。ずっとお互いに頭を下げ合っている。そんな二人のやりとりを眺めて、ニコニコ笑う蓮。部屋の隅で知らん顔のタイガ。
「今、飲み物を出しますね。コーヒーと紅茶、どちらがいいかしら?」
「いえ、本当に、お構いなく!」
キッチンに向かう瑞希に、拓海は必死に訴える。
「飲み物も出さないなんて失礼ですもの。遠慮なんてしないでください」
「う……、では、コーヒーで……」
——胃が痛い……コーヒーはやめるべきだったかも……
実は拓海は、瑞希くらいの年齢の女性が苦手である。その原因は五歳上の姉、
パンツの中に生きたトンボを突っ込まれたり、油性マジックで体に落書きされるなどは日常茶飯事。それを見てケラケラと笑う香菜を、拓海は〝魔王〟と怖れた。一方、拓海の二歳年下の妹、
香菜が中学生にもなると、さすがに拓海への暴挙の数々は鳴りを潜めたが、姉弟間のヒエラルキーはその後も変わることなく、姉が圧倒的地位を誇示し続けた。
結果、未だに姉に対しては苦手意識を払拭できずにいたりする。
キッチンからコーヒーの香りがリビングにまで充満してきて、拓海の気分を少し落ち着かせた。向かいのソファーでは、蓮が携帯ゲーム機を取り出して、遊び始めていた。
「蓮くん、何のゲームをしているの?」
「『こねこねアニマルプラネット』だよ!」
「どういうゲーム?」
「粘土をこねてつくった動物をたくさん育てるの」
「おお、それ知ってる。ウチの倫太郎もそれやってる」
「え? おじさん、子どもいるの?」
「ああ、ゴメンゴメン、倫太郎っていうのはおじさん……じゃなくてお兄さんのお姉ちゃんの子供でね、よくウチに遊びに来るんだ」
すると、コーヒーを運んできた瑞希が、
「甥御さんがいらっしゃるんですか?」と興味深げに聞いてきた。
「ええ、姉夫婦が近くに住んでいまして、共働きなんで、たまに預かるんですよ。体の良いシッターです」
拓海は頭を掻きながら苦笑する。
「おいくつなんですか?」
「今年八歳になります。この四月から小学二年生です」
すると瑞希は「まあ!」と顔をぱっと明るくして
「蓮も同い年です!」と嬉しそうに言った。
「あ、やっぱり。それくらいだろうなあ、と思って見てました。でも、中身は全然違うかな。蓮くん、優秀そうだし。倫太郎は全然言うこと聞かないし、考え無しで行動するし、僕のことは呼び捨てだし……、ガキ大将ですね。姉も手を焼いています。はは……」
「ふふ、でもその感じだと、かわいいんでしょ?」
「まあ……、そうですね。ものすごく年の離れた弟みたいな?」
そんな拓海の言葉に、瑞希は微笑みながら相槌を打つ。
「あ、あの……ところで小野寺さん」
「はい?」
「やっぱり、僕みたいな見ず知らずの男を家に上げるのは、何ていうか、危ないと思うんです」
瑞希は、言われた言葉の意味が分からないというように、小首を傾げた。
「ご主人がご在宅ならよかったんですが——」とそこまで言った拓海は、瑞希の異変に気づいた。
——え?
瑞希の時間が、止まった。瞳から光は消え、まるで停止した動画を見せられているような〝人形〟と化した瑞希がそこにいる。
すると、蓮が大きな声で「あっ!」と叫んだ。
その声に驚いて振り向くと、蓮は、何か良い事を思いついたという顔で、胸の前でパンと手を叩いた。今の状況には似つかわしくない表情だ。
そして、蓮は言った。
「パパ!」
この瞬間、拓海は混乱の極みにいた。だが無常にも時間は、拓海を置き去りにして進む。
廊下側のドアを開けて男性がリビングに入ってきた。拓海と同じくらいの身長。眼鏡を掛け、薄っすらと顎髭を生やしている。とても柔和な顔立ちだ。部屋着もきちんと着こなし、手にはマグカップを持っていた。別の部屋で何かの作業でもしていたのだろう。
「あ、お客さん? ——どうも、小野寺です。ごゆっくりどうぞ」
蓮の父親、小野寺
「あ、……本条です。お邪魔しています」
ほぼ条件反射だったが、返事ができたことに拓海自身が一番驚く。
——待て待て、ちょっと待って! 考える時間、悩む時間が欲しい!
主人の話をした途端、小野寺が現れた。瑞希の時間停止に蓮のズレた言動も不気味さを感じる。そういえば、瑞希の時間停止はすでに解除されていて、今はキッチンにいる。
「パパ、コーヒーのおかわり?」と小野寺と夫婦の会話をしている。
——さっきのは何?
そこはかとない気持ち悪さ。思えば、それは蓮を最初に見たときから始まっている? 直後の〝耳元囁き男〟、交差点での祐介の不可解なリアクション、そこで佇む〝揺らぐ少女〟——
そこまで考えて、交差点で佇む少女の記憶が、鮮明に蘇ってくる。あの儚げな少女。拓海の中の〝センサー〟が、あの少女を
——わからない! 何が起こっている!?
拓海が思考の迷宮を彷徨っている間、瑞希は事のあらましを夫にざっくりと説明した。小野寺は、驚いた表情で拓海の頬の絆創膏を眺め、それから深々と頭を下げてきた。
「本当に申し訳ないことを……、何とお詫びすればよいか」
会話を振られたおかげで、拓海はようやく我に返った。
「いえ、本当に大した傷じゃないんで……。むしろ丁寧に傷の手当までしてもらい、すごく感謝しています」
色々考えるのは家に帰ってからにしよう、と決めた。
「そう言っていただけるとありがたいのですが、傷口が化膿したりする場合もあります。それに細菌感染なども怖いので、一度きちんと病院で診てもらってください。もちろん診察料や治療費はこちらで負担しますので」
拓海は返答に悩みつつ、費用負担の話だけは固辞した。
早々に帰ろうと拓海がコーヒーを飲み干したとき、瑞希が蓮に声を掛ける。
「蓮、遊んでばかりいないで、お部屋のお片付けをしてきなさい」
「はーい」
素直に自室に向かっていく蓮を見て、拓海は感心した。
「本当にウチの甥とは違う……。すごくいい子だなあ」
子供部屋は二階のようで、階段を小気味よいリズムで駆け上る音が聞こえる。
「ああ、甥御さんがいるんでしたっけ? 蓮と同学年の——」
「僕の甥——倫太郎っていうんですけど、まず一回じゃ言う事は聞かないですね。屁理屈こねて何もしないので、姉がいつもブチ切れてます」
「はははっ、そっちの方が普通かもしれないね。蓮はちょっと大人しいというか、聞き分けが良すぎるところがあって……、少し心配しているんですよ」
笑って答えた小野寺だったが、表情に陰りがさした。
「実は、あの子は少し前まで大きな怪我をして入院していたんです」
「え?」
「それで学校もしばらく休んでいたので、友達作りもうまくいっているとは言い難くてね」
「そ、それは大変ですね」
何とも答えに困る。
「勉強も遅れがちなので、今度、塾にでも通わせようかと考えています」
「なるほど、塾通いしている子、結構多いですもんね。倫太郎ですら通わされていますからねえ……」
思わず、姉に尻を叩かれながら塾に通う倫太郎の姿を想像する。
——やべぇ、先生をからかったり、消しゴム投げて遊んでるところしか思い浮かばん。
「倫太郎くんは、塾はどこに通っているんですか?」
「えーと、昇英ゼミですね。ここからだと確か隣駅の教室ですね」
姉夫婦の家は、拓海のアパートよりもここの方がずっと近かった。
「お、それは良い情報を聞きました。もしかしたら、倫太郎くんと同じ教室になって、お友だちになるかもしれないですね?」
「まあ、それは素敵ね! パパ、本当にそこの塾を考えてみたら?」
夫婦で楽しげに話している。
それからすぐに、拓海は小野寺家を出た。外はすっかり暗くなっていた。玄関先で再度、病院で怪我の状態を看てもらうように、小野寺から説得された。蓮も見送りに出てきたので、ハイタッチをして別れた。玄関から廊下の奥に目をやると、リビングのドアから顔だけ覗かせたタイガが、半目で拓海をジトッと見つめていた。ブレない猫である。
最後に、小野寺夫妻に改めて礼を言い、拓海は帰路についた。
その夜、拓海はアパートのベッドの上に寝転がり、今日起こった出来事を頭の中で整理していた。
——蓮の指から伸びていた〝光る蔦〟……。全然わからん! 気のせいだ。気のせいに違いない。
——ご主人の話をした途端に現れた小野寺さん……。タイミング良すぎじゃないだろうか?
——そのときの蓮くんと蓮くんママの不自然な様子……。怖い。
——タイガの俺に対する敵意……。勘弁して欲しい。
そして、何より気になったことがある。
拓海が小野寺家のリビングに入ったとき、瑞希は寒い部屋についてこう言った。
『誰もいなかったからエアコンも付けてなくて』と。
あの時点では、小野寺は家にいなかったと受け取れる。いや、別の部屋にいたんだから、そういうこともあるだろう。しかし、瑞希の振る舞いや言動から、誰もいない家に招待されたという確信が拓海にはあった。なのに、小野寺は部屋着姿でマグカップを持って現れた。
確かにあの瞬間——拓海が「ご主人がご在宅なら……」と発言する瞬間まで、あの家には、小野寺はいなかった。そして、その発言によって、小野寺がいたことになった。
拓海の直感がそう判断した。非常識で説明もつかないが、それが正しい判断だ、と。
——気持ち悪い。
——たちの悪い冗談みたいだ。
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クレイドル Cradle —今日も世界は揺らいでいる— 千足ももぞう @momozo1103
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