第2話 記憶の霧
「はい――すみません、ちょっと体調が優れないので、今日はこのまま直帰します。――ええ、そうですね。ありがとうございます。では失礼します。」
電話を切って「ふぅ」と一息ついてから、駅に向かって歩き始めた。
アパートに戻り、着替えもせずにベッドの上に倒れ込む。そこから仰向けになり天井を見つめ、夕方の出来事を思い返す。
知らない男に、耳元で不意に囁かれた言葉。
『見ることがあなたの役目です』
そもそも、あれは本当にあったことなのか?
どこか嘘っぽ過ぎて現実味がまったく無い。夢だったと言われた方がまだ納得がいく。しかし、思い出そうとしただけで、手のひらにじんわりと汗が滲む。それほど衝撃的な出来事が、夢のわけがない。
「実は、俺に言ったんじゃなくて、他の誰かに言ってたとか?」
そうだとしたら、自意識過剰でちょっと恥ずかしい。
「でも、あれ、絶対オレに言ってたよなあ……」
目を閉じて、再度記憶を辿り始める。
言われた言葉が、頭の中で繰り返し再生される。はっきりと思い出せる。なのに、その言葉を発した人間の方は、あまり覚えていない。
「スーツ、着てたよな……」
しかし、そこから先が霞んでいく。それも、不自然なほど急激に。思い出そうとする度に、頭の中に入り込んだ何かが、ぐしゃぐしゃと記憶をかき混ぜていくような、不快な感覚。
「いや、スーツ、着ていたか?」
つい今しがたまで覚えていたはずのことが、わからない。
「――あれ? 男?」
眉間に皺が寄せた。
「いや、女……だった?」
混乱が広がる。
「――え? うそだろ……、男か女か思い出せない?」
がばっと上半身を跳ね起こす。ベッドの上で胡座をかき、手放しそうな記憶の破片を必死にかき集めた。
男、たぶん男だった。
そう思うのだが、確信が持てない。記憶に靄がかかる。
ぞくりと、背中に冷たいものが走った。キッチンの冷蔵庫から2リットルの烏龍茶ペットボトルを取り出し、そのまま口をつけて喉に流し込む。
「――ふぅ!」
息を吐き出して、もう一度深呼吸。
「大丈夫。オレは大丈夫、うん」
自分に言い聞かせるように呟く。
再びベッドの上に座る。
「で、〝見ることが役目〟って、何?」
あのとき見ていたものとえいば、キラキラ少年とコワモテ猫。
「猫が、男の子を護衛してたな……」
思い出して、フフッと頬が緩む。ひとりで猫と話す男の子。スーツの男とは対照的に、少年の顔ははっきりと思い出せた。
スマホが鳴った。
「わぁ!」
びっくりして大声を出してしまった。
ベッドの上でブルブル震えながら呼び出し音を鳴らすスマホ。その画面にはよく知った会社の後輩の名前、『森川祐介』の文字が表示されている。
「なんだ祐介か……」
通話ボタンを押すと、いつもの調子の良い祐介の声。用件は、明日一緒に出かける打ち合わせの件だった。
『拓海さん、今日直帰しちゃったじゃないですか? 体調悪いって聞いて――大丈夫ですか?』
「ああ、悪い悪い。明日になりゃ大丈夫だから、心配すんな」
『ホントですか? 明日オレだけじゃ打ち合わせ回せないっすから! ドタキャンだけは勘弁してくださいよぉ?』
「そっちの心配かよ!」
と、いかにも祐介らしい言葉に苦笑する。
『ところで明日の打ち合わせ場所、俺んちの近くなんで、会社に寄らず直行しようかなあって。なので、駅近くのカフェで待ち合わせでもいいですか?』
「お? まあ、別にいいよ」
アポは朝イチなので、家が近いなら確かにその方がいい。待ち合わせ場所と時間を決めて、電話を切る。
「すっかり〝拓海さん〟呼びに慣れたなあ」
スマホを見つめながら呟く。
「そして俺も、普通に〝祐介〟って呼んでるわ」
会社の歓送迎会のときからか―—と、あの日のことを思い出していた。
◇◇◇
歓送迎会は、駅前の居酒屋で行われた。
いわゆる〝飲み〟の場は好きではない。だが、得意である。上司をイジりながらも持ち上げたり、緊張気味の新人社員をさり気なく会話の輪に交えたり、自虐ネタで場を盛り上げたり。そう、俺はデキる男だ。しかし、神経をすり減らす男でもある。
早く帰りたいわあ。
気がつくと隣の席に、後輩の祐介が座っていた。すでに酔っているのか、頬が赤い。
「本条さん! 乾杯しましょう!」
「おう森川、乾杯〜」
このときはまだ『本条さん』『森川』と呼び合っていた。
チン、とグラスを合わせ、本日三回目となる祐介との乾杯に、思わず苦笑が漏れる。調子のいいヤツだが、憎めない。二十三歳で社会人二年目。〝インドア派の陽キャ〟とでも言うのか、ウンチク好きで喋り出すと止まらない。しかし、童顔で人好きのする笑顔を振りまくこいつは、誰からも愛されている。どちらかと言えば、苦手なタイプだが……。
なんか、すごく懐かれているんだよなあ。
以前、残業続きの祐介を、終電近い時間まで何度か手伝った。そうしたら、泣きそうな顔で感謝されまくった。しかもその残業中に振った話題が迂闊だった。アニメやラノベ好きだと聞いていたので、話題づくりのために「好きな作品は何なの?」と聞いてしまったのだ。
こっちは「有名な作品をチョロッと知っています」という程度で、人に語れるほどの知識はない。ただ、話を合わせるスキルには長けていた。そのせいか、気がつけば猛烈に祐介を喜ばせてしまった。
〝表向き〟は誰とでもうまく付き合えるし、人間関係の構築・維持は卒なくこなせると自負している。祐介のことも嫌いではない。むしろ好ましい。しかし、特定の人物と深く関わるのは苦手だ。グイグイと距離を詰めてくる祐介に、正直戸惑っていた。
「本条さん! 今度から本条さんのこと、〝拓海〟さんと呼んでいいですか? オレのことは〝祐介〟と呼んでいいので!」
「お前とマブダチになった記憶はない。そして、オレがお前を〝祐介〟と呼びたがっているみたいに言うのはヤメロ」
「塩! 塩すぎる! ひどい拓海さん!」
「おい、まだ〝拓海〟呼びは許してないよ、森川君。だいたい、何で急に名前で呼びたいの?」
「それはですねえ」
あ、聞いちゃいます?みたいな顔で祐介がニヤリと笑う。
「今読んでるラノベの主人公の名前が〝ユースケ〟なんですよ。でね、そこに〝タクミ先輩〟ってのも登場するんです! いやもうこれ、運命じゃないですか?」
祐介は興奮してテーブルをバンバン叩く。
「いや運命じゃない、ただの偶然だ。それからテーブルを叩かない。
まあそうだな、別にオレのことは好きに呼べばいいけど。でもお前のことは〝森川〟のままだ。それ以下も以上もない」
「もし、先輩が〝祐介〟と呼んでくれないなら、ボクは先輩のことを〝マリンちゃん〟と呼びます!!」
「なんでだよ!?」
「そのラノベのヒロインの名前が〝マリンちゃん〟だからです!!」
「だから、なんでだよ!?」
つい吹き出してしまったが、〝マリンちゃん〟と呼ばれるのは勘弁だ。
「わかったわかった! 気が向いたら名前で呼ぶって」
「それ、絶対に呼ばないヤツ! 試しに一回、呼んでみて下さいよぉ」
「気が向かない」
「マリン先輩〜っ!」
「呼ぶな!!」
ここは絶対に引かん!と粘る祐介に根負けして、小さな声で「……祐介」と呼んだのは、それから十分後のことだった。
◇◇◇
翌朝、待ち合わせ場所のカフェでコーヒーを注文する。〝早め行動〟が基本なので、約束の時間にはまだ余裕がある。相手が遅れる分には全く気にしないが、自分は遅れたくない。たまには遅刻することもあるが、「相手を待たせている」状態がストレスになるのだ。
しばらくすると、店の入口に祐介が現れた。キョロキョロと店内を見渡している。こちらを見つけると大股でテーブルのそばまで来て「おはようございます!」と雑な敬礼ポーズをとる。
「お前はいつも元気だねえ……」
と感心しつつもため息を零した。
その後、打ち合わせの事前確認を簡単に済ませた二人は、クライアントの会社へ向かった。打ち合わせは、特に問題なく進み、予定通り一時間ほどで終了した。
ビルを出ると、春の陽射しが二人を包んだ。まだ昼前なので、一旦会社に戻ることにした。
駅に向かう途中の交差点で、信号待ちをしているときだった。交差点の片隅に置かれたものが視界に入った。それは、誰からも忘れ去られたようにひっそりと横たわる、枯れ果てた小さな献花だった。
事故か何かで誰かがここで亡くなったからと、感傷的になるわけではない。ただ、知らない誰かの人生が、思い掛けず自分の意識に飛び込んでくる。その度に、その誰かと自分が〝同じ線上に乗った〟と感じてしまう。主観視点が客観視点に一瞬だけ切り替わる感覚だ。
「祐介、お前たしかこの近くに住んでいるんだよな?」
「はい、そうですけど、どうかしました?」
「いや、このあたりで事故でもあったのかと思ってさ。ほらあれ」と、拓海は先ほどの枯れた花束を指さした。
「ああ、ありましたね。なんか大きな事故だったみたいで、当時は大騒ぎしてましたよ。たしか去年の……あれ? いつだっけ?
事故……あったっけ?
大騒ぎ?
大きな……、事故?」
祐介は、首を傾げている。
「…んん? あれ?」
どうも要領を得ない。様子がおかしい。
「なんだよ、忘れたのか?」
「いや、そうじゃなくて……、
って今、何の話をしてましたっけ?」
「はぁ? 何って、事故の――」
祐介の返事に戸惑った。祐介は困ったように頭を掻いていたが、正面の赤く点灯する歩行者用信号に向き直った。
「この信号変わるの遅いですよねえ」
軽い口調でそう言った祐介は、こちらを向いて「そう思いません?」と同意を求めるような顔で肩をすくめた。まるで、事故の会話など無かったかのように。そのあまりにも不自然な言動に、思わず祐介を凝視した。それがよほど驚いた顔だったのか、祐介は「え? 拓海さん? ど、どうしました?」と慌てふためいた。
どうしたって……、それはこっちのセリフだぞ……
つい最近、こんな違和感を体験したばかりだ。いや、昨日か。昨日の〝耳元囁き男〟だ。あれも奇妙な出来事だったが、よく知った人間に起こった〝怪奇現象〟は、違和感を通り越して恐怖を感じた。
昨日の男がまたどこかで見ているのではないかと思い、思わず周囲を見回す。
そして――
一人の少女に、釘付けになった。
枯れた献花を挟んで拓海の反対側、その献花をじっと見つめるように少女が立っている。
年齢は十七、八歳くらいだろうか。身長は百六十センチより少し高め。薄い水色のダッフルコートに白いスカートの清楚な出で立ち。黒髪のショートボブで、可愛いというよりはキリッとしたクールな美人。いかにも陸上競技やバスケットボールをしていそうな、スラッとした体型である。
少女は、献花をただじっと見つめていた。
無表情で、微動だにしない。
少女から視線を外すことができない。一目惚れとかそういう話ではない。目を離すことができない空気を、その少女は纏っていた。昨日の少年とはまた違う。少年が周囲から浮いていたとするならば、少女は周囲から孤立していた。世界から取り残されたような、どこからも隔絶された場所に一人佇んでいるような――。不安定で今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
けれど同時に、強い意志のようなものを宿した瞳。遠くを見ているような、そして何かを探し求めるような、そんな眼差し。
そのとき、一瞬だけ――本当に一瞬だけ――少女の周りの空気が、わずかに〝揺らいだ〟ように見えた。
「え?」
目を凝らす。
しかし、〝揺らぎ〟のようなものはもう見えない。少女は、相変わらず献花の前に立ち尽くしている。
「拓海さん? どうしたんすか? もう青になりますよ」
祐介の声で我に返る。
「あ、ああ。悪い、ちょっとボーッとしてた」
慌てて少女から視線を戻し、横断歩道の方に向き直る。
――気のせいか?
しかし、胸の奥に残る違和感は消えない。もう一度少女の方を見ると、少女はまだそこに立っていた。まるで時が止まっているかのように。
信号が変わり横断歩道を渡っている途中も、立ち尽くす少女を何度も振り返ってしまう。
会社に戻る電車の中、ぼんやりと窓の外を眺めていた。祐介は、隣でスマホを見ながら、何やら楽しそうにしている。
さっきのあの子……
頭の中には、あの無表情な横顔が焼き付いている。
そして、あの一瞬見えた空気の〝揺らぎ〟。
昨日の、あの少年。
今日の、あの少女。
それだけではない。立て続けにわけのわからないことが起きている。
何かが変だ。
けれど、それが何なのか、まだわからない。
電車が揺れる。
窓ガラスに映る自分の顔を見つめながら、小さく息を吐いた。
『見ることがあなたの役目です』
あの言葉が、また頭の中に響いた。
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