第1章
第1話 街角の少年
三月の夕暮れは、まだ肌寒い。
本条拓海は、コートの襟を立てながら、駅へと続く路地を歩いていた。足早に行き交う人々の間を縫うように進みながら、彼はスマートフォンの画面を確認する。今日撮影した写真データは、無事にクラウドにアップロードされている。仕事は終わった。あとは帰るだけだ。
ああ、早く帰りたい。
今日は、とにかく疲れた。
今日訪れたのは、都内近郊のとある高校。卒業式の取材だった。学校のウェブサイトをリニューアルする案件で、その素材として卒業式の様子を撮影してほしいという依頼だ。拓海は、IT会社でデザイナー兼プログラマーとして働いている。こうした現場取材は本来の業務ではないが、人手不足もあって駆り出されることも多い。
式が終わり、あちらこちらで抱き合い、涙を流し、笑い合う卒業生たち。
「三年間、ほんとに楽しかったね!」
「お前らと同じクラスで良かった!」
「卒業しても、一緒に遊ぼうな!」
最近は、ちょっとした取材の写真撮影ならスマホで十分事足りる。両手で構えたスマホの画面越しに、その〝青春〟の光景を切り取っていく。けれど、撮影ボタンを押すたびに、胸の奥に
なんで、あんなに喜んだり、泣いたりできるんだろうな。
自分と彼らの間には、空気以外の見えない壁がある。同じ空気を吸いながら、まるで違う世界に生きている。この感覚を昔から知っている。
中学でも、高校でも、大学でも。卒業式、体育祭、合唱祭――クラスメイトたちがひとつになって盛り上がる横で、自分だけが世界から切り離されていると感じていた。簡単に言えば、冷めていた。嬉しいとか、悲しいとか、そういう感情がないわけじゃない。ただ、周囲と同じテンションになれない。自分が見ている風景を上から俯瞰しているような感覚に、いつも囚われていた。
一度だけ、無理に輪に加わろうとしたことがある。高校の卒業式の日。クラスメイトたちと肩を組んで、一緒に飛び跳ね、笑った。けれど、それはやってみただけ。心はまるで別の場所にいた。その後に襲ってきた自己嫌悪は、今でも鮮明に覚えている。
自分は、おかしい。
俺は、何か大事なものが欠落している?
そんな気持ちを抱えたまま、気がつけば二十八歳。親元を離れ、都会のアパートで一人暮らし。彼女なし。彼女は欲しいが、絶賛募集中というほど前傾姿勢になれない。決してモテないわけではない。背も平均より少し高めだし、空き時間のジム通いのおかげで、ほどよく均整の取れた体をしている。顔は……、まあ、普通だろう。髪は短めにすっきりと整え、身なりも清潔に見えるように心がけている。「カッコいい!」と言ってくれる女性だって、きっといる、はずだ。きっと。
実際、過去に数人、付き合った女性もいる。ただ、なぜか長続きしない。自分から告白した経験はなく、最初はいつも女性側からの告白。その気持ちが嬉しかったし、彼女らのことは好きになったし、自分なりに大切にしていたつもりだ。なのに、別れはいつも相手から切り出された。
最初にフラれたときは「なんで?どうして?」と混乱したが、それが二回、三回と続けば「これは自分に原因があるんだ」と気づく。しかし、その原因がわからない――いや、薄々気づいてはいるけど――という状況が、恋愛に対し二の足を踏ませていた。
路地を抜けると、商店街に出た。並木というほどではないが、街路に植えられた桜の木が蕾をつけている。数日もすれば花開くだろう。
春は別れと出会いの季節。新しい門出を祝う季節。けれど俺にとっては、思い出したくもない過去の苦い記憶を引っ張り出される季節。なので、春という季節は好きになれない。
「はあ、今日の夜は何しようかな」
気持ちを切り替えようと、頭の中で今夜の予定を組み立てる。とはいえ、何か特別なことをするわけでもないが……。いつも通り、コンビニで弁当を買い、ビールでも飲みながら、録画しておいたバラエイティ番組でも観る。そうだ、そうしよう。一人の時間が、今は何より心地いい。
そのとき――
正面から歩いてくる少年が目に入った。
小学校低学年くらい。姉の子で今年八歳になる甥と同じか、近い年齢だろう。ランドセルは背負っていないので、学校帰りではなさそうだ。小柄でクリッとした目。女の子と言っても通用しそうな可愛らしい顔立ち。ガサツで生意気な甥っ子とはお大違いだ。しかし気になったのは、その容姿の良さではなく——
そこだけ、周りから浮いていた。
少年の周囲一メートルくらいの空間が、不自然に空いているのだ。まるでその領域に入ってはいけないと言わんばかりに、何かに拒絶されているかのように、街ゆく人々がそこに足を踏み入れようとしない。すれ違う人が、少し大げさに少年を迂回して歩いているように見えた。拓海は足を止めた。
少年は楽しそうに何かを喋りながら歩いている。
ひとりで誰かと喋ってる?
ずいぶんと大胆な独り言をしゃべる子どもだな。いや、違うか。少年の少し後ろを、一匹の痩せた茶トラの猫が歩いている。
ああ、猫に話しかけているのか。
少年は歩きながら後ろの猫を振り返り、何かを語りかけている。
それにしても、少し奇妙な光景だった。まず、猫の行動。野良猫のように見えるが、こんな街中の歩道を、人の流れに乗って堂々と歩く猫なんて見たことがない。少年の飼い猫だとしたら、なおさら奇妙だ。自分の飼い猫にリードも付けず――リードを付けた猫にも違和感を覚えるが――散歩に連れ出す飼い主はいないだろう。
しかし、少年と猫の間には確かな信頼関係がある。漠然とそう感じた。
猫は、警戒するような鋭い視線を周囲に飛ばしている。まるでコワモテの護衛だ。しかし、少年から話しかけられている間だけは、彼を見上げ、言葉に耳を貸している。実にかわいい。
ただ、通行人が誰ひとりとして猫に注目していない。すれ違いざまに猫に少しだけ視線を向けたり、踏まないように避けたりもしているので、見えていないわけではなさそうだ。もっとこう、「え? なんで猫が?」とか驚きそうなものだがが……。
俺が猫好きだからそう思うだけ?
「俺にも懐いてくれる猫、どっかにいないかなあ」と、少年に嫉妬の目を向けていたら、
猫と目が合った。
こっちをじっと見つめている。
何かを値踏みするような、何かを見透かすような――
そのとき、空気が――世界が、ぶるり、と震えた。
人々や車や自転車、建物といったモノの輪郭が、瞬間的にわずかに明瞭になった。それはカメラのピントが合った瞬間に似ている。そして、周囲の音が、まるで高性能のスピーカーから流れてくるように、クリアに聞こえ始めた。さらに、景色が自分からわずかに遠ざかったような錯覚。
「んん!?」
目を擦る。しぱしぱと目を瞬く。そうしてもう一度、辺りを見渡す。視力には自信がある。目の良さが数少ない自慢のひとつだ。しかし、以前よりも〝一段階〟よく見えている、と思う。
音は、ボリュームが上がったというよりは、小さな音まで拾えているような感じ。少し離れた場所でしゃべっている人の、普段なら聞こえないだろう会話が――聞き取れる。
え? 怖い。……何? どういうこと?
目を瞑って、こめかみのあたりを揉む。深呼吸をして、もう一度目を開けようとした、その時――
「見ることがあなたの役目です」
真後ろから、耳元で囁かれた。
「わっ!?」と驚いて振り返ると、すぐ後ろに男が立っていた。身なりの良い濃いブラウンのスーツ姿。長身でやけに姿勢がいい。けれど、のっぺりとして印象に残らない顔。ただ、口角だけがわずかに上がっている。
男は何も言わず、顎をわずかに動かし、先ほどの少年と猫の方を見るように仕草で合図した。そこには、抗うことを許さない何かがあった。拓海は、機械仕掛けの人形のように首を回して、視線を元に戻した。
少年はすでにその場にはいなかった―――が、代わりに親子連れの後ろ姿が見えた。親子三人で仲良く話しながら遠ざかっていく。両親に挟まれて歩いている子どもは、さっきの少年によく似ている気もしたが、たぶん別の子どもだろう。あの猫の姿もない。
四、五秒は呆けていただろうか。慌ててもう一度スーツの男の方を振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。
「……え?」
周囲を見回す。人通りは多いが、あのスーツの男の姿はどこにもない。まるで最初からいなかったかのように。
「ええ?」
親子連れの後ろ姿も、とっくに見えなくなっていた。心臓がドクドクと音を立てている。拓海は半分パニックに陥っていた。
待て待て。落ち着け!
深呼吸をする。頭を整理する。猫と目が合ってから、視界や音が変になって……。と考えて再度、周囲の見え方や音の聴こえ方に注意を払ってみる。わからない。最初からこうだったような気もするし、やはり以前とは違っている気もする。いずれにしても、もう違和感のようなものを何も感じていなかった。
それから、あの男――突然背後に現れて消えた男。あの感情の読めない目が、今も背中を見つめているような不穏な感覚——
その時、すぐ近くで、バサバサッと一羽のカラスが飛び立ち、夕暮れの空へと消えていった。
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