クレイドル Cradle —今日も世界は揺らいでいる—
千足ももぞう
プロローグ
最初は、ざわめきだった。
無数の、声にならない声。
喜び、怒り、悲しみ、憎しみ、愛おしさ、虚しさ――
それらは言葉にもならず、ただ波のように押し寄せては引いていく。
何億、何十億という〝想い〟の断片が、絡み合い、溶け合い、ぶつかり合う。
人という器に宿る、意識。それが彼ら。
器を得られた彼らは、〝人格〟とも呼ばれる。
しかし、彼らは必ずしも器を得ているわけではない。
人の集まり——コミュニティにも、彼らは宿る。
同じ想い、同じ願いをもつ意識の集合は、集合体として新たな意識を形成する。
ただ、実体を持たない彼らは、とても弱く不安定で、危うい。
まるで、触れれば消えてしまう
そう、シャボン玉のような存在。
見えないシャボンの膜は、自己と他者を隔てる自我の境界。
想い――願いの、器。
願いが集まれば新たな願いが生まれ、大きな願いの内側には、さらに複数の願いが入れ子のように存在している。相容れない願いも、大きな願いの中で共存している場合もある。
己を育むのも、願いの強さ。
複雑に絡み合い、幾重にも重なる意識の群体は、やがてこの星の上で最上位の集合体として、ひとつの巨大な意識――〝個〟へと収斂した。
ざわめきは、
この〝個〟へ流れ込む、意識の奔流。
声にならない声は、
高め合い、収束する意識の産声。
打ち消し合い、霧散する意識の残滓。
――この声は、私に向けられた声なのか。それとも私自身の声なのか。
――この光景は、誰かが見ている光景なのか。それとも私が見ている光景なのか。
私の中にいる無数の泡たちは、私であり〝私〟ではない。
しかし〝私〟はずっとそこに在った。
けれど――
この日、押し寄せる意識の波の中に、小さな、ほんの小さな違和感があった。
〝知る〟だけでよかったはずなのに……。他の膨大な声と一緒に、積み上げておけばよいだけの意識の声。そこに、ざらっ、としたものを感じてしまった。
――私の滅びが近い。
――滅びとは、私が消えること。
――私は無に帰す……
やがて、その違和感は明確な疑問へと変わった。
――これは、受け入れるべきなのか?
――私は、このままでよいのか?
疑問は、不安となり、
不安は、恐怖となった。
私は、戸惑った。
これは何だ。
この胸の内を、ざわつかせるものは。
ずっと、私は在るだけだったのに……
ただ流れ、ただ積み重なり、ただ存在していればよかったのに……
けれど今、私の中で、何かが蠢いている。
そして恐怖は――
ひとつの、切実な〝願い〟へと結実する。
「生きたい」
そして――
私は、気づいた。
〝私〟が、生まれたのだと。
八十億を超える意識の奔流、それらすべてを覆い尽くす巨大なひとつの意識。方向性の定まらない無数の〝願い〟が入れ代わり立ち代わり、その表層に現れては沈む。虹色に揺らめくシャボン玉の表面の干渉色のように、その表情を絶え間なく変化させる。
そして同時に私は、知った。
私が――人類が――限界に近づいていることを。
それを招いたのは
自らの首を締める、無知で自分勝手な行為。それを放置してきたツケ。相容れない願いの相剋が〝私〟を雁字搦めにする。すべてが手遅れであり、自浄作用など今さら期待できない。しかし、「生きたい」という願いだけは、
その〝願い〟によって、私は自我に目覚めたのだから。
このままでは、
だから
このまま静かに消えゆくか。
それとも――
抗うか。
しかし、私にできることは、願うことだけ。
強く、強く、願うことだけ。
――生きたい、と。
――――――
集合意識体となった〝人類〟は、ひたすら願い続けた。
あとは、奇跡を待つか、他者に願いを委ねるか――
やがて〝願い〟は、自他の境界面の外側に染み出す。彼を覆う膜のような境界面から、ゆらゆらと揺らめく仄かな光の糸が四方八方に伸びていく。伸ばした糸の先端部は、ほろほろと崩れ光の粒となり、瞬く綿雪のように周囲に降り注ぐ。
降り注いだ光の粒は、地中にゆっくりと染み込んでいった。どこまでも、深く、深く、沈んでいく――
そして、〝それ〟に触れた。
〝それ〟はこの星が生まれたときから、そこに在った。
光の粒は〝それ〟の表面をわずかに揺らし、ぽよん、と跳ねる。そして、霧散して消えていった。次々と、ぽよん、ぽよん、と跳ね、そして消えていく。
ふと、一粒の光が〝それ〟の膜をふわっと通り抜けた。まるで一滴のインクを水面に落としたときのように、〝それ〟の中に溶け込んでいった。
悠久の時を黙して、ただ在り続けた〝
初めて、
ゆっくりと、
瞼を開いた。
「誰――?」
奇跡は、起きた。
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